島田荘司による「島田物語」の感想
「島田物語」は、なかなか有意義な読書体験だった。というのもこれは、自分自身による、自分自身に対する、精神分析に似た時間であったからだ。
不思議なことだが、自分の存在を示す固有名詞がそこにあるのに、いくら文章を読んでも、この世界の中に自分がいると感じない。ところがこの「島田」という存在からは、身内を示す懐かしい信号が絶えずやってくる。このヒトとぼくとは、明らかに他人ではない。しかしぼく自身は、少なくとも現世にやってきてからは、この「島田」という受けのセックスが格別好きな人物とは、魂がひとつであった自覚がない。それでもぼくには、彼女の「記憶」があるのだ。
読み進み、この性的な存在と自分との距離は詰まらないのだが、記憶だけはどんどん鮮明になる。脳の記憶記銘回路の埃が徐々に払われて、そうだ、ぼくはこの猥褻な存在と、確かにひとつであった時期がある。だんだんに思い出した。たとえばぼくにはこういう思い出がある。もう十年以上の昔になるけれど、コックリさん遊びをやった。あれは確か杉並区の一角だった。後輩に魚座の人がいて、彼は霊感がとても強く、彼と組んでやるとコックリさんの呼び出しには必ず成功すると言われた。彼と後輩の下宿で会い、大きな白い紙に、でたらめに平仮名と数字を書き散らし、その上に十円玉を置いてはじめたら、その通りで、端に指先を触れているだけの十円玉が猛烈な勢いで動きだして、ぐいぐい言葉を綴りはじめた。その勢いたるや凄まじいの一言で、テーブルの下に超強力なマグネットでもあって、これが板越しに十円玉を引きつけたまま、右に左に動いているとしか思われなかった。
最初に「ゼロの霊」と名乗る人が現れた。そして「ゼロを上に、ゼロを上に」とばかりをしきりに言う。意味が解らず、彼の相手だけで、あっという間に三十分ばかりが経過した。
彼が何を言っていたかと言うと、自分は偉いのだから、ゼロは紙の一番上に書けと主張していたのだった。ようやく理解し、「解りました、次からは上に書きますから、どうかこの場はお帰りください」と魚座の友人が頼むと、彼はすごすごと帰っていった。このすごすごというのは嘘ではなくて、感触を今に憶えているのだが、ふらふらと紙の上を動きながら、これを動かしていた力がすうっと、ゆっくりと抜けていくのだった。下のマグネットの電気が徐々に絞られていく様子とそっくりで、十円玉がふっと、こちらの自由に動くようになった。
続いて女性が現れた。とても控え目なもの言いをして、ぼくは一発で彼女に好感を持った。「ナツコと言います」と自分の名前を名乗り、「私のほかにも、何人かがあなたの守護についています」と言った。その内のかなりの数の人が女性だった。
ナツコと、この夜ずいぶん話をした気がするのだが、内容はもう忘れてしまった。ぼくはこの時、ちょっと説明がむずかしいくらいに感動した。感動の質を説明すると、たとえば見ず知らずの外国人に囲まれ、ちょっとしたコミュニケーションにも苦労をするような日々にあって、思いもかけず自分と完璧な同類同体質の人に出遭ったというような、まずはそういう喜びである。同類というより、もう兄妹以上、分身の近しさを感じた。言ってみればそれは、分裂した自分の「雌」の部分と、煉獄での別離以来再開したと、そんなような気分だった。
理由は、まずは彼女の異様なほどの内気さだった。その夜彼女の見せた内気さは、自分以外、周囲の誰の内にも見いだせないような種類の内気さで、この遊びの間、実は周囲にギャラリーがいたのだが、その中に女性が一人いた。ぼくが何か、たぶんぶしつけな質問をナツコにしたのだったと思う。その時彼女は小さな声で(十円玉の動きで、そういうニュアンスも伝わるのである)、「隣のめめ怒る」と言ったのだ。
「めめ」という言葉の意味がしばらく解らなかったのだが、だいぶして解った。これは女性を意味する古語で、彼女はぼくのそばにいた女性に気を遣ったのである。
そうかと思うと、えらく強気の発言もする。なかなかの自信家のようにも見うけた。彼女のそういう分裂ぶりが、変り者のぼくにはひどく魅力的に写り、それでぼくは、「あなたに何かお礼をしたいんだけど」と言った。「ずっと守ってきてもらったんだから、お礼に、ぼくに何かできることはないでしょうか」。四六時中守ってもらって、何もお礼をしないというのでは男としての嗜みに欠ける。無報酬では、彼女も仕事に張りが出ないであろう。
そうしたら彼女は、「いりません」とはっきり言った。「でもそれじゃああんまり……」とぼくが言ったら、「じゃあ歌を歌って」と彼女は言った。「あなたが歌辞めたの、悔いがあります」と言う。
この頃ぼくは、「占星術殺人事件」を確か執筆中で、海のものとも山のものとも判定のつかない時代だったから、頭のてっぺんから足のつま先まで不安でいっぱいだった。バンドをやっていて、音楽は好きだったが、こんなもので食えるとは到底思えなかったから、これにはきっぱりと決別し、自分としては作家一本で立つ決心をかためつつあった。自分の頭に小説を書けという信号がたびたび来ていたし、自分のこの決断は正しいと考えていた。
こういう信号は、彼女あたりが発しているものとばかり思っていたので、彼女のこの時のもの言いには非常な不安を感じた。というより、軽いショックさえ感じた。これは、作家としての将来には見込みがないと彼女に判定されているのかもしれないと心配になり、「あの、ぼくの小説は嫌いでしょうか?」とおずおずナツコに訊いた。すると彼女は、「好き」となんだかお義理みたいに応えてくれた。それで不安はやはり晴れなかった。
明け方自分の部屋に帰り、ひと眠りしたら、押し入れからギターを引っ張り出して、ビートルズとか、当時好きだったジャック・ブレルの「If
You Go Away」などをしばらく一人で歌った。その晩また後輩の家に行ってナツコを呼び出し、「あれでよかったでしょうか」と尋ねたら、「はい、いいです」と彼女は、十円玉を使って言った。まあそんなような、不思議な思い出がある。
魚座のその友人は、それから行方不明になってしまって、もう会うことはなくなった。でもナツコと話したことは、強い記憶になってぼくの心に残った。
しかし小説を書くようになって、ぼくはたびたびこのナツコに会うようになったのである。つまりぼくの小説に、たびたびこの時のナツコが現れてくるのだ。
それはたとえばこういうふうだ。ぼくは男だから、女性の世界のことなんか何も知りはしない。ところが物語が女性たちの世界の描写にさしかかると、ちょうどコックリさん遊びの時のように、ぼくの手が勝手に文章を書きはじめる。男が出ている時は、ちゃんと自分の頭が書いているという自覚があるのだが、女が出てきたらさあ大変で、筆がどんどん勝手に走ってしまう。そういう時当のぼくは何をしているのかというと、実はこれがよく解らない。半分寝ているような気もするし、終わるとえらくぐったりするから、体力だけは使っているのだと思う。その日の分を書き終わってひと眠りし、翌日読み返してみると、ぼくの知らない女性世界の情報が、たくさん書かれていてびっくりしたりする。
こうして書いてみると、自分でもなんだか気味が悪いが、あれは明らかにナツコが書いてくれているのだろうと思うようになった。オンナが出てくると、さあ私の仕事よとばかりに、彼女がぐいぐい書いてしまうのだ。してみるとコックリさんの時彼女が、ぼくの小説に関して格別何も言おうとしなかったのは、あれは半分自分の受け持ちだったからなのだろう。自分の仕事に関してなら、それは好きも嫌いもない。歌ならただ聴いているだけだから感想も言える。
本当にありがたいことだといつも思う。いつか彼女にきちんとお礼をしなくてはと思うのだが、どうすればいいのかよく解らない。歌を歌えばいいのだとすれば、カラオケ・ボックスに足繁く通わなくてはならないということか。
まあそんな話はともかく、「島田物語」を読み進んでいて、ぼくと作中の「島田」というオンナとの距離が詰まらないのは、ひとつは性というものに対する対処の姿勢である。ぼく自身は、性的行為の中にあっては、いかなる時も受身であったためしがない(こういう話はやばいからこれでやめるが)。ところがこの物語の中の「島田」は、まるで冬虫夏草みたいなずうずうしさで、ある時は責め、またある時は徹底して責められて、その身中深くに、つまり女性的な器官に、節操なくも際限のない快感を発生させるのである。「島田」の行動原理は、まさしく光線に誘導される夏の蛾のごときもので、徹底して快感のみを求め、動く。この潔さと好色さに、深く感動した。
すなわちこの部分なのである。ぼくが語りたい事柄は。つまりぼくはこう感じるのである。島田という本物の、生身の小説家の方は、男女の分離がすこぶる健康的に果たされており、なんともつまらない。現実的行為のうち、あるいはその精神的欲動内部においては、ぼくの中にオンナが現れることは全然ない。いかにも残念なことだが、この致命的なまでの健康ぶりは、自分でも悔しいくらいである。
これは下世話な軽口の類いでなく(それもあるが)、島田荘司の小説をいずれ文学として評論しようとする人が現れたなら、この発想は、案外本質的かつ重大な方向ではないかと時々思うのである。最近東京向島の、この世界では有名な両性具有の職業人と知り合った。彼が、日本文学史上に高名なあるシュワルツェネッガー型男性作家が、実は中身がオンナで、お姫様のきらびやかな衣装を着て、月代の青々とした若侍に後方より犯されるのが最も好みのイメージであった、というスクープ的証言をしてくれた(あまり口外しないように)。
ところが島田荘司に関しては、不幸にしてこういう面白いことがない。それをぼくは、霊界において、ぼくのうちの男性性と女性性とがあまりに完璧に分離してしまったせいではないかと睨んでいる。同時に、この分離があまりも完璧に成功したがために、分裂したオンナの側の「島田」にも完全にフォーカスが合ってしまって、彼女は手足、そしてむろん女性性を持った完璧なオンナとしてぼくの無意識下に実在してしまったのではないか、というふうに推察をするのである。そうしてこのオンナの「島田」が、ぼくの小説の半分を手伝って、生々しく女性的にするのではないかと思うのだ。つまり分離が完成したがため、女性を胎内に留める男性作家のもの以上に、ぼくの小説の半分は、オンナのものとしていやらしくなったというわけである。つまりぼくの作品は、男の島田と、昔分離したオンナの「島田」との合作なのだ。
ちょっと余談だが、ぼくは時々こんなふうに思う。文学は、明らかにS型とM型に分類される。そして文学達成度は、総じてM型の方が高い。絶対受身の視線の方が、何故か文章に艶が出る。日本でノーベル文学賞の候補になるような小説世界は、たいてい後者に属する。
島田の小説は、残念ながらS型に属している。この理由は多々あるが、ひとつはすでに話したように、ぼく自身の肉体から、女性性が完全に追放されているが故にほかならない。だからぼくの小説世界は、その完熟のため、知らずレオナのような、M型のパワーを欲する人を求めるのかと思う。
さてここでフロイトの夢分析の基本的な理屈について話すと、人間の精神には意識の領域と無意識の領域とがあって、これはちょうど水が半分入ったビーカーのように
、空中と水中という上下に重なる二層に別れている。普段の行動のための判断は、意識の内から材料を採って行われる。したがってここに危険な因子を混入させると、この個体の生存に関わるから、危ないものは無意識の領域に押し留めるというヒューズ機能が自動的に働く。
無意識下に出現する様々な情報を、無制限に意識内に上げることを許すわけにはいかないから、水面にあたる境界に、一種の「関所」が設けられる。無意識領域が情報で飽和状態になると、その一部はあふれ、この関所を突破して意識の高みに上がろうとする。しかし関所は、危険な因子は決して通すことをしない。ところがこういう二十四時間規制体制は、一刻の気も抜かないというわけにはいかず、チェックのパワーがゆるむ時間帯がある。この時だけは情報は監視の目を盗み、ふらふらと意識の領域に浮きあがる。これがすなわち「夢」だ。だからフロイトは、人間の夢を子細に、そして情熱をもって分析すれば、当該人物の無意識世界を覗くことができると信じたわけである。
この構造は、ちょうど「暗闇坂」に出てきた藤並家の階上と、封印された地下の美術室との関係である。あの世界の持ち主、ジェイムズ・ペインという人はかなり変わっていたから、封印された無意識にあるものはああいう要素だったが、多くの人にとって、無意識世界にひしめく危険因子とは大半性衝動である。フロイトも、間違いなくそう考えていた。
ぼくの地下美術館世界も、おそらくはこういう猥雑で、生存に関して危険な因子に充ちている。そこではジョン・レノンは死んでいず、切り裂きジャックも生きていて、ジョンやルードヴィッヒ二世と同じテーブルにつき、たぶんジンか何かを飲んでいる。この暗い世界に享楽的に暮らす彼らと旧知の「島田」は、たぶんスカートを穿いていて、その奥には女性器を隠し持っているに違いない。
「島田物語」にぼくは、こういう黄泉の世界から、あの懐かしいオンナの「島田」がやってきているのを見たのだった。だからここは、ぼくの口から「島田物語」の読者のみなさんにご紹介するのが筋であろう。彼女の本名はナツコと言います。かつてはひとつだった、ぼくの分身です。どうぞよろしく。ぼくの小説の女性描写が、いくらかでもみなさんを楽しませたとすれば、それは彼女の功績です。決してぼくのじゃありません。
コックリさん遊びの時のあの白い紙も、一枚の薄い水面に似て、ぼくの意識界・無意識界を隔てる関所だった。小説を書きながらぼくは、覚醒したまま夢を観る。そこもまた関所解放の背徳の一瞬で、オンナの「島田」がワープロの画面にたち現れる。ぼくにとって小説書きとは、多く彼女との逢引きの時間で、だからたいていの場合、執筆は苦しくなんてない。いくらでも書けますよ。
「島田物語」を読んでいて、彼女のあまりの淫乱ぶりに感心し、また惚れ直してしまった。実に頼もしい。ぼくが感じることのない「受け」の快感を、彼女にはせいぜい味わってもらいたいと思う。
平成八年二月十二日 島田荘司
掲載雑誌:不明