韓国人形の謎(サテンのマーメイド、番外編)
「私の家は、L湖のほとりに建っている八階建てのマンションの最上階なんですが」 とその婦人は話しはじめた。彼女が私の事務所にやってきたのは、四月の最初の火曜日だった。
「主人の母が、ソウルで買ってきたお人形が盗まれてしまったのです」
「高いものですか?」
「二百万は下らないと思いますが……」
彼女は私の口笛にはおかまいなく続けた。
「そんなことより、これは義母の形見なのです。私自身もこの人形の東洋的な顔が大好きで、思いついては写真を撮っていました。昨日外出した時も、三脚を立てて、人形の表情を撮っていたのです。途中で外出し、夜部屋へ戻ってみると、人形が盗まれていました。けれどカメラが自動的に作動して、人形に近づいたものをすべて撮影しています。これです」
婦人は写真をテーブルに並べた。写真は三枚あった。
一枚目は、人形の顔に蝶がとまっている写真。
二枚目は、人形の額に謎めいた記号を今しも書きつつある女の細い手。線は赤く、どうやら口紅であるらしい。
三枚目は、額に奇妙な記号を書き込まれ、ただ立っている人形。
「どうして自動撮影ができたんです?」
「このカメラは、『キャッチ・イン・フォーカス(CIF)』という機能が備わった特殊なカメラなんです。フォーカスをロックしてレリーズボタンを押しておくと、そのフォーカス域に被写体が入った時、自動的にシャッターが落ちるんです」
「ほう」
「そうすればシャッター・チャンスを逃しません。静物撮影の時も、このモードを使えばピンボケがありませんから、私は韓国人形をこのモードで撮影していたんです。そして、うっかりそのままにして外出してしまいました。戻ってきたら、この三枚の写真が、自動的に撮影されていたんです」
「なるほど。この女性の手はあなたですか?」
彼女は激しく首を振った。
「違います。見当もつきません、誰であるのか」
「部屋の鍵は開いていたのですか?」
「とんでもありません! きちんとロックして外出しました」
「それなのに、何故蝶がいるのです?」
「さあ……、しかし、私が戻ってきた時はいませんでした。どういうことなんでしょう」
「あなたはカメラマンですか?」
「結婚する前はそうでした」
「この三枚目の写真は、どうしてシャッターが降りたのです? 見たところ、人形に何も近づいてはいないようですが」
「解りませんんが、きっと何か横切ったのではないかと思います。この時私は室内光で撮影していて、シャッタースピードを遅くセットしていましたから……」
「この人形が持ち去られる瞬間は写っていませんね」
「はい」
「おかしくないですか? キャッチ・イン・フォーカス機能からすれば、運び去られる瞬間も写っていていい。だって誰かがフォーカス域に入ったはずです、人形にフォーカスが合っているんですから。違いますか?」
「その通りです。でも解りません」
「ご主人の意見はいかがでしたか?」
「主人はゆうべ帰ってきませんでした」
「ほう、やはりね」
私は言った。
「ご主人の職業は?」
「サラリーマンです」
「ではいつも夜にならないと帰ってきませんね」
「そうです」
「あなたの依頼は人形の行方ですか? ご主人でなく」
「そうです」
「ご主人より、この人形の方が大事なのですか?」
すると婦人の表情に、かすかな苦渋が浮いたらしく見えた。
「私と主人とは、もう駄目だったのです」
「ご主人に女ができて?」
女は驚いた顔をした。
「どうしてお解りで?」
「どんな女性かご存知ですか?」
「知りません」
「知りたくはないのですか?」
「それは知りたいですが、でも主人は話してくれませんし……」
「あなたのマンションの八階に住んでいる韓国女性ですよ」
私が言うと、婦人は口をぽかんとあけ、こぼれるほどに目を見開いた。
「八階に韓国人女性が?」
女性は頷く。
「います。でもあの女? あの女が? でも……、どうしてそんなことがお解りに?」
思わず私はニヤリとする。
「さて、ご主人を捜さなくてはなりませんね」
言って私は立ちあがり、帽子掛けの方へ歩いた。
「そんなことより、何故主人に女ができたことを? それも、同じ八階に住む韓国女性とまで……、以前から私たちのこと、ご存知だったんですの?」
「あなたがこの部屋に入っていらっしゃるまで、クレオパトラとジョージ・ワシントンくらい、ぼくらは赤の他人でしたよ。でもぼくは、その韓国女性があなたの部屋の隣りに住んでいることまで知っています。そのわけは途中の車の中でお話ししましょう」
ジャギュワXJ12におさまると、女は待ちきれず話しはじめる。
「何故キムが私たちの隣室に住んでいることを?」
「蝶々ですよ。あなたは外出の時、ドアをロックされた。最初はご主人から女が合鍵をもらっているのかとも考えたが、それでは蝶の説明がつかない。蝶は普通、マンションの廊下になどいませんからね。女がベランダ伝いに侵入したから、表を飛んでいた蝶も一緒に室内に入ったんです。女となると、まず隣室でしょう?
上の階からはなかなか降りられない、下からはもっとです」
「でも何故彼女が韓国人と?」
「人形の額の文字です。あれはハングル、韓国の文字です」
マンションに着き、エレベーターに乗ってからも、私たちは話し続けた。
「何と書いてあったんです?」
「一言『死ぬ』とね。女は自殺するとご主人にほのめかしたんです。自分のことだと解らせるために、あの韓国人形の額に書いた。それを発見したご主人が、カメラに写らないよう、細い棒か何かで人形を叩き落とし、持って女を追った。その時、棒を感知したカメラがシャッターを切った」
「何故人形を?」
「むろん韓国女性の問題とあなたに知れるからです」
「しかし、もう写真に写っています」
「あとでフィルムを抜くつもりだったのかもしれませんね。しかしあなたが先に戻ってきた」
「何故死ぬと?」
エレベーターが八階に着いた。
「これは想像ですがね」
私は小声になった。
「この東洋の愛人は、何度もあなたと別れてくれるようご主人に要求していたんでしょう。煮えきらないご主人に業を煮やした彼女は、それなら自分が死ぬと宣言した。あわてたご主人は後を追い……」
「一緒に死んだ……?」
放心し、立ちつくすふうの女の手から、私は部屋のキーをもぎ取り、そっと鍵穴にさし込む。
「フィルムが抜かれていないのだから、そうかもしれない」
私はせいぜいセクシーに、彼女の耳もとで囁く。
「それとも……」
そっとドアを開けた。ナイフを掴んだ男の手が、勢いよく突き出される。身をかわし、その手首を掴む。私はボディに蹴りをとばした。悲鳴をあげ、男がペルシア模様の絨毯の上にあおむけにひっくり返り、韓国製のナイフは、私の靴の先でくるくる廻った。
「さもなければ、妻を殺すと誓わされたでしょうね」
私は振り返り、依頼人に説明した。
のろのろと起きあがる亭主を、うつろな目で眺めながら依頼人がつぶやく。
「さすがですわね。あざやかなお手並みだわ」
「有能な助手さえいれば、たいていこんなものです」
私は答えた。
「有能な助手って?」
「あなたのカメラですよ」
ベランダのカーテンの陰から、スラリとしたプロポーションの韓国美女が姿を現わした。
手に、馬鹿に値のはる例の韓国人形を持っていた。
何ものによらず、外国製は高くつく。
マガジンハウス、「ブルータス」