ある夏の夕方。昼間とは打って変わって天気が悪くなった。
青空は曇り空になり、蝉の声と共に雷の音が聞こえ始めた。
そして、この時の私の内面が現れたかのように、辺りは暗くなり、雨が激しく降り出した。
アスファルトの色が変わるのを見届けた私は、食器を洗うことにした。
昼食の後片付けをしようとはしたものの、水が流れていく様子を見続けるだけで手が動かなかったのだ。
御手洗は今、自室で自然の音とギターでセッションをしている。
その音を聞きながら、私は手を動かした。
しばらくすると、また私の手は止まった。
雷の音。雨の音。ギターの音。目の前を流れる水の音。
私がそれらの音を聴くだけの存在に成り下がっていた時に、新たな音が加わった。
電話の音。
突然の参加に驚いた私は、手に持っていたグラスを割ってしまった。
一瞬だけ鋭い音が加わる。
拾おうと手を伸ばすと、泡の中に隠れていた破片で小指を切ってしまった。
小指の先から赤い色が出てくる。
落ちた。
微かに音がする。
それは自分だけが聴いた音。
あかい。
小指から。
ながれる。
糸のように。
ほそい。
赤い糸。
きれる。
落ちる。
はなれる。
遠くへ。
いやだ。
嫌だ。
良子。
独りにしないでくれ。
良子。
君の隣で君を感じたい。
良子。
君は今どこにいるんだい?
今から逢いに行ったら、きっと驚くだろうな。
俺はガラスの破片を拾う。
今度は誰にも切れない糸にするよ。
これで一緒にいられるね、良子。
「石岡君!」
俺が振り向くと、そこには全身びしょぬれの御手洗がいた。
「ごめんよ、本当に悪かった。僕がいけなかったんだ。思い出したよ。君がどうしてあんなに怒っていたのか。花瓶だろう?君のお気に入りの花瓶を興奮していた僕が、放り投げて前衛的な形にしてしまったんだ。それでね、これを……。石岡君!一体何をしているんだ!」
話しながら近付いて来た御手洗は俺の手首を掴むとぐいと引っ張り、ソファに座らせると、せかせかと救急箱を持ってきて小指の手当てを始めた。
「洗剤で洗うのは油汚れだよ。傷口には消毒液だ。ああ、そうか、自虐的になるほど気に入っていたんだね。ごめんよ、石岡君。片付けは僕がするから、君はこれを眺めていてくれ。」
俺は大きな箱を開けた。
「花瓶の事を昨日思い出してね。それから、あちこちを探したんだ。それで、見付けたのはいいけれど、取り寄せる事になってしまってね。さっき電話が来ただろう?お店に取りに行ったら、大雨の中よく来たな、って店員さんが驚いていたよ。実は、僕も驚いた事があってね」
「これは……」
「そうなんだ。その色しか在庫がなかったらしいんだ。それじゃあ駄目かい?」
前に持っていた方は、光を取り込んでしまう深い海のような青色だった。
彼が買って来てくれた方は、暖かくて優しい光を反射する純白だった。
それはまるで……。
「ありがとう。御手洗君」
「気に入ってくれたのかい?」
「うん、すごくいいね」
私は花瓶を手に取って言った。
「よかった!僕ね、お腹が空き過ぎて死にそうなんだ」
「どうして?お昼は食べただろう?」
「ああ、食べたとも。昨日ね」
「昨日?」
「昨日の昼食後に僕が花瓶を割ったんだ。その後、君は放心状態。その為に昨日の夕食から何も食べていない」
「えっ!」
「君が怒るのはもっともだ。しかし、血管に圧力をかけ続けてポックリ逝く人もいるのだから、ここはひとつ君の健康のために溜飲を下げてくれないかな」
御手洗は両手を泡だらけにしながら衝立てから出て来た。
私が頷き、立ち上がるのを見ると、彼は勢いよく床に座り込んだ。
「御手洗、どうしたんだ!」
「ああ、片付けは終わったよ」
「そうじゃなくて!」
「いや、気にしないでくれよ。お腹が空き過ぎて腰が抜けただけだから。それより、早く食事を頼むよ。はっ、はっ、はっくしゅん!」
「……食事の前にお風呂に入った方が良さそうだね」
「うん、うん、んっくしゅん!」
彼はふらふらと浴室へ消えた。
私は大急ぎで料理を作り始めた。
聞こえるかい?
僕はもう独りじゃないんだ。
心配してくれて、ありがとう。
僕は大丈夫だから、君はゆっくりお休み。
こうして「俺」が出て来ることはなくなった。
彼は今、良子と共に眠っているのだろう。
夢の中で。
<了>