これは御手洗さんが、まだ幼稚園に通っていた時のお話です。
「歩いて行きますので送って下さらなくて結構です」
ブルーの上っ張りに名札を付けた黒の半ズボン姿の潔ちゃんが、スーツ姿の井川さんを見上げて言いました。
「おはようございます」
井川さんは潔ちゃんの主張など耳にタコですから、いつもの様にロールスロイスのドアを開けます。
「ですから自分で…。あ、ちょっと、ねぇ、人の主張は聞くべきだ!」
井川さんは、座席に潔ちゃんを座らせるとシートベルトを着けました。自分も運転席へ座って同じ事をします。
この様にして潔ちゃんは毎日幼稚園へ行くのです。
幼稚園まで残り二百メートルをきった時に赤信号で車は止まりました。
後部座席に座っている潔ちゃんは不敵な笑いを浮かべます。
行動開始です。
潔ちゃんは素早くシートベルトを外してドアを開けました。
「ご苦労様でした。それでは行って参ります」
そして、潔ちゃんは幼稚園を目指して脱兎の勢いで駆け出したのです。
「はぁ。よかった、赤信号で」
井川さんは走って行く潔ちゃんを見ながら言いました。
昨日、潔ちゃんは青信号で低速運転中にインディージョーンズさながらの脱走をしました。
「潔ちゃん、おはよう!」
お目々クリクリの洋輔ちゃんは潔ちゃんと仲良しです。
「……おはよう」
潔ちゃんは汗だくで、朝からお疲れの様です。
「いつも大変だね」
「うん」
「疲れるだけなんだからさ、ここまで送ってもらえばいいのに」
「絶対、嫌っ!」
潔ちゃんは拗ねてしまった様ですが、洋輔ちゃんはニッコリです。
「はーい!みんな、お席に着きましょう」
エプロンを着けた奈々実先生が言いました。
潔ちゃんにとっては退屈な時間の始まりでした。
さて、お絵描きの時間になりましたよ。
「ねぇ、潔ちゃん」
「何?」
「それ何?」
洋輔ちゃんは、潔ちゃんの絵を見ながら訊きました。
「怒りや不満を抽象的に表現してみた」
洋輔ちゃんと潔ちゃんの絵を比べると、それは天国と地獄の様です。
「怒っているの?」
「うん」
「ふーん…。あ!潔ちゃん、聞いた?」
「今から聞くよ」
「あのね、トイレにね、お化けが出るんだよ」
「へえ、そりゃ凄いね」
洋輔ちゃんは困った顔になりました。そして、クレヨンでぐりぐりと渦巻きを描き始めます。
「どうしたの?洋輔ちゃん」
潔ちゃんは不思議そうに訊ねました。
「もっと驚いて欲しかったのっ!」
洋輔ちゃんのほっぺがプゥと膨らみます。
「わあ、驚いた」
気を遣った潔ちゃん。けれどセリフは棒読み。これじゃあ、明らかに逆効果です。
「もう、いいよ!」
「あ、そうかい。それで、どんなのが出るわけ?」
ちょっと潔ちゃん、その対応は間違っていますよ。
ほうら、天国の様な洋輔ちゃんの絵がどんどん地獄の様に…。
「ゾンビとか?あ、日本は火葬か。じゃあ、首が長いのとか、目玉付きの傘とか、顔がないのとか」
洋輔ちゃんがコクリと頷きます。
「顔がないの?」
「顔だけじゃなくて全部ないの」
「それでどうして、お化けだって分かるの?」
「あのね、泣き声が聞こえるの」
「聞いたの?」
「うん、聞いたよ。昨日、トイレにいったら声がしてね、トイレの中を全部見たけれど、見えなかった」
「へぇ、度胸あるね」
「だって、お化けなんているわけないじゃない」
「君はそういうの信じない方なんだ…。…あ!もしかして」
その時、二人の背後から…。
「おーばーけぇーだぁぞぉぉっ!」
「……」
「……」
「ちょっと!君達ね、少しぐらい驚いてくれたっていいじゃないの。先生、悲しいわぁ」
ヨヨヨと泣いたフリをしているのは奈々実先生です。
「大人って大変ですね。先生」
潔ちゃんがしみじみ言うと洋輔ちゃんが頷きます。
「はぁ。相変らず君達は、大人だねぇ…。うげっ!何それ」
二人の絵を見た先生、絶句。
「誰が地獄絵を描けって言ったの?もっと夢のある絵を描いてよね」
「はーい」
洋輔ちゃんは奈々実先生に笑顔で答えると潔ちゃんの方に向き直ります。
「で、潔ちゃん。もしかしての次って何?」
「あーん。もっと先生の相手をしてよぉ〜」
奈々実先生は二人の席の間にしゃがみ込みました。
「はい。よしよし」
潔ちゃんは奈々実先生の頭をなでなでします。
「え?何の事?」
「はあーあ。もういいよ」
「そう」
「あのさ、一体、何を話しているの?」
結局奈々実先生は会話についていけませんでした。
そして、やっと退屈な時間が終わりました。
外には例の車が待っています。
物陰には逃亡を目論んでいる潔ちゃんの姿があります。
そこにちょうど良く、園児と母親の集団が潔ちゃんの前を通り過ぎました。
次の瞬間、潔ちゃんの姿が消えました。
正門まで来ると予想外の事が発生しました。グループが左右に分かれたのです。
てっきり同じ方向へ行くとばかり思っていた潔ちゃんは大慌てで隠れました。
が、時すでに遅しです。
「あ、潔ちゃん。ちょうど良かった。この間コンクールに出した作品が返って来たから持ち帰って欲しいの。ちょっと来てくれる?」
奈々実先生です。
「……はい」
せっかく近づいた出口が遠ざかります。
「あのカバ良く出来ていたよ。みんなは青系の色を使っていたのに、一人で赤なんだもの。斬新よね」
「それは……」
潔ちゃんが教室に入ったと同時に身体が上昇しました。
「うっわあ!しまった」
「お迎えに参りました」
井川さんです。
「先生、もしかして嘘ついたの?酷いじゃないですか!」
「あら、嘘じゃないわ」
奈々実先生は笑顔で赤いカバを持っています。
「それでは失礼します」
「はい、さようなら。気を付けて帰って下さいね」
潔ちゃんは後で知る事になるのですが、実はこの二人付き合っているのです。
暴露ついでに言うと、この場にいるのは四人です。本人が自覚するのはもう少し後ですが。
潔ちゃんとカバを座席に座らせて、朝と同じ作業をします。
もちろん、カバにシートベルトは着けませんよ。
「何これ!井川さん、一体どういうこと?」
潔ちゃんは異変に気付きました。
「これじゃあ護送車だ!」
なんと、ドアロックが解除できないように改造が施されているのです。
「はい。あまりにも危険な行動をされるものですから」
「そんなぁ…」
潔ちゃんの不幸は更に続きます。
セリトス女子大に到着と同時に学生が集まってきました。
「潔ちゃーん!」
「一緒にお茶しない?潔ちゃん」
「教えて欲しい所があるの」
潔ちゃんは圧死寸前です。
その時、再び潔ちゃんの身体が上昇しました。
「だっ誰?」
「Now we are safe out of danger(もう大丈夫)」
マーガレット・ウィルキンスさんの登場です。
「Thanks. you‘ve been very hopeful(ありがとう、助かったよ)」
「You are welcome(どういたしまして)」
「潔ちゃーん!」
「Escape!(逃げて!)」
ウィルキンスさんは潔ちゃんを抱いて走り出します。
「待ってぇー」
「どこへ行くの?潔ちゃん」
潔ちゃん・ウィルキンスさんペア対学生たちの鬼ごっこが始まりました。
しかし、潔ちゃんの知能と戦略に太刀打ち出来る者はいなかったので、二人は難なく逃げ切りました。
潔ちゃんがお気に入りの場所で一休みです。
アヒルが潔ちゃんを見付けて嬉しそうに近付いて来ましたが、猫が来たので池へ戻ってしまいました。
「キヨシ、どうしたの?」
ウィルキンスさんが猫を撫でながら訊ねます。
「今日、友達からお化けって言われた」
「へぇ、カッコ良いわね」
「ううん、全然カッコ良くないんだ」
「そうなの?」
「うん…」
この日からです。潔ちゃんが掃除用具入れの中で泣かなくなったのは。
次の日からはトイレの個室で泣くようになりました。
一年後、潔ちゃんの通う小学校のトイレにお化けが出るという噂で持ちきりになったとか、ならないとか。
《Toire no kaidan》 →END
Written by 覆面作家