酔狂する訪問者たち
The author だりむくれ

 あれは、一九八八年の十一月初めのことである。「舞踏病」事件の少し前、ちょうど、私たちが長いヨーロッパ旅行から帰ってきて、ようやく馬車道の我々の住みかへと辿り着いた、その日のことだった。
 御手洗も私も、そのときは疲れ切っていた。今はまだ発表出来ないが、そのヨーロッパ旅行の間にも、何の因果かいくつもの事件が重なって起きていたのである。あまり愉快とは言えない旅行となってしまったので、一刻も早く家に帰って、懐かしいいつものベッドに潜り込みたいと、そのとき私は思っていた。しかし我々はそれでも、そういった事件の連鎖の中から逃れることが出来なかったらしい。しかもこの場合は、私たち自身が事件の中心にいた。いや、御手洗に言わせれば、まさしく私自身に原因のある事件だった。
 タクシーに乗って私たちの家の入っているビルの前まで着くと、ビルの前には大きなトラックが停めてある。どうやら運送会社のものらしい。トラックの銀色の車腹には、大きな青い字で会社の電話番号が描かれていた。私たちの住んでいるビルは、すでにかなり老朽化が進んでいるので、そうしたトラックが停まっていることは珍しかった。
 私はもう倒れ込む寸前だったので、いそいそと運転手に金を払い、タクシーを降りようとした。御手洗も呼んでいたよく分からない研究書のような本を閉じ、ゆっくりと伸びをした。すると突然、外からシンバルを叩くような、バーンというひどく大きな破壊音が響いてきた。
 私が驚いて外を見ると、ちょうど運送会社の人がトラックの中から飛び出してくるところだった。荷物を運び出そうとしていたところらしい。何事かと騒いでいる。しかし、辺りには音を立てそうなものは見当たらない。
 早くも近所や通行人が野次馬となって集まりだした。
 私がタクシーの中から周囲を見回していると、横に御手洗がいない。慌てて探すと、いつの間にかタクシーから抜け出て、トラックの横に立っていた。御手洗は、深刻な顔つきでトラックの上部をゆっくりと指さした。
「あそこだ・・・」
 野次馬の中から悲鳴が漏れた。
 トラックの銀色の天井からは、ゆっくりと血が垂れてくるところだった。
 どうやら、誰かがビルから、トラックに向けて転落したようだ。

 遠くから救急車のサイレンの音が響いてきた。タクシーの運転手も、料金は取ったものの野次馬根性旺盛らしく、動こうとしなかった。しかし、やってきた救急車のスピーカーから「そこのタクシー、どきなさい!」という大きな声が聞こえてきたので、ようやくどこかへ逃げ去っていった。
 私と御手洗が見ていると、どんどん集まってきた野次馬をかき分けて、担架が運び出されてきた。トラックに梯子を掛けて、何とか降ろしたらしい。上にはどうやら、髪の長い女性が乗せられている。苦しげな表情を浮かべて、頭からひどく血を流していた。
 救急車が去るまで、私たちは動くことが出来なかった。トラックには滴りおちた血の跡が残っていた。
 近くにいた少し太り気味のおばさんが、
「嫌ね、あたし見ちゃった、落ちてくるとこ」
と呟いた。しかし、どこか得意げな雰囲気が漂っていた。こうしたとき、なぜ人というものは、得をしたような気分になるのだろう。
「どの階からですか?」
と御手洗がおばさんに尋ねた。おばさんは今気付いたかのように、
「あれ、あなたもしかして御手洗さん!? じゃあ、あなたが石岡先生!? やだわー、早く言って下さいよぉ、驚くじゃないの。あーら、ご本で読むよりいい男ねー、石岡さんも。石岡さん、こんなお顔だったの? まーあ」
と勢いよくまるで関係ない話をし始めた。御手洗は露骨に顔を顰めて、
「ですからどの階から落ちたんですか」
と我慢強く訊いた。
「えーとねえ、どこだったかな。あたしからは、何階から落ちたかまではよく見えなかったの。ねえ桑本さん、今のお姉さん、どこから落ちたんでしたっけ?」
と横にいた別のおばさんに尋ねた。
「四階らしいよー、このビルの四階。よくまあ助かったものねー、普通死ぬでしょ」
と死ななかったことが不満かのように隣のおばさんは答えた。
「四階ですって」
「四階というと、部屋が二つありますけど、どっちの部屋か分かりますか」
と重ねて御手洗は尋ねた。
「そうねー、トラックがこっちにあるんだから、こっちの部屋じゃない?」
 おばさんは女性が落下したトラックの位置をを確かめながら、向かって左側の四階の部屋を指さした。
 御手洗は驚いたような目つきをして、
「石岡君、その女性が落ちたのは僕らの部屋の真下らしいよ」と私に向かって言った。私はそのときになってようやく気がつき、声を上げた。私たちの住んでいるビルはいい加減古くなっているので、ほとんど住んでいる人間はいないのである。ときどき読者からの手紙にも、近所の人のことを教えて欲しいなどと書かれているが、今のところその問いに答えたことはない。もちろんよその人のことを勝手に書くわけにいかないということもあるが、第一に住んでいる人間がいないので、書きたくても書けないのだ。てっきり自分たち以外に住んでいる人間がいないような錯覚に陥っていたため、私は近所にそんな人間がいたのかと驚いてしまった 。
「このビル、女性が住んでいたのか・・・」
「不覚にも気付かなかったようだね、石岡君」
 揶揄するように御手洗は笑いながら言った。
「違う! そんな意味で言ったんじゃない。こんなところに女性が住むのか、と思ってね」
「そう、確かにそうだね。このビルは年頃の女性が住むような立地条件ではない。ではなぜ住んでいたのか」
「なぜなんだ?」
 私がそう言うと御手洗は哀れむような、怒っているような妙な表情を浮かべて、
「君が分からないんじゃ、誰にも分からない」
と謎の言葉を吐いた。
「どういう意味だ!?」
「さあね。さ、石岡君、行こうか。おばさん、どうもありがとう」
 そういうと御手洗は、さっさとビルの入り口へ向かっていった。私は慌てておばさんに頭を下げると、急いで御手洗の後を追った。

 階段を上る途中で御手洗に追いついた。
「おい、どういう意味なんだ」
「だから君に分からなけりゃ誰にも分からない理由だ、という意味さ。いつも言っている通りのことだ。いつかは人に迷惑を掛ける、というのが本当になったわけだ」
「意味が全く分からない」
 すると御手洗は疲れ切ったような深いため息をついた。そして私の方を睨みつける。と、突然段を二段とばしにして凄い勢いで階段を上っていった。こういうとき、私と御手洗では足の長さが比較にならないほど違うので、絶対に追いつけない。どうやら御手洗は怒ったらしい。私は諦めてゆっくり上ることにした。
 五階に着くと、ちょうど廊下の突き当たりでドアがゆっくりと閉まるところだった。私はため息をつくと、またゆっくりと廊下を歩んでいった。御手洗と一緒にいると、別段彼が変わった活動をしていなくても大いに疲れる。変わった活動をしていたりするとますます疲れる。結局いつでもまんべんなく疲れている。そのうち私の方がどうにかなってしまうんじゃないかと時々心配になる。
 私がドアを開けると、まだ御手洗は玄関の入ってすぐのところに突っ立っていた。私は観念して声を掛けた。
「御手洗、気分を害したのなら謝るよ。だけど、君には明らかだとしても、僕には全く分からないんだ。悪いが分かり易く説明してくれないか」
 これだけ下手に出ても、御手洗はうんともすんとも言わない。私もさすがに頭に来て、
「おい御手洗!」
と叫んだ。すると御手洗は、
「石岡君、大変だ」
とまた意味不明なことを言った。
「は? 何を言ってるんだ」
 すると御手洗はゆっくりと振り返って、こう言った。
「泥棒に入られた」

 御手洗を押しのけて部屋を見渡すと、ひどいことになっていた。応接セットはひっくり返され、衝立はこかされ、丸テーブルも倒れていた。食器戸棚の中の皿は大部分が外に放り出されている。冷蔵庫も開けっ放しになっていて、中の食品類は掻き回されて、ぐちゃぐちゃになっていた。ミルクが床にこぼれて、溜まりになっている。デスクの上に載せてあった私の原稿や仕事道具も、ほとんどが床に落とされていた。急いで玄関のドアを確認すると、錠の部分が完全に破壊されていた。
「な、なんで・・・」
 私が狼狽して動けないのを後目に、御手洗は迅速に動くと、自分の部屋に直行した。私もはっと気づき、自分の部屋に駆け入った。
「よかった無事だよ石岡君、手もつけられてないみたいだ! ギブソンもレコードも盗られてない!」
 満面の笑みを浮かべて御手洗が部屋から出てきた。
「いや、本当によかった! あれが盗られたら立ち直れなかった。おや、石岡君、どうしたんだい」
「やられた・・・」
 私の部屋の状態は、リヴィングよりもひどかった。机の引き出しもタンスの引き出しも、みな完全に探られていた。中身はほとんどが床に散逸されていた。私の持っているアイドル歌謡のCDまでもが引っぱり出されて、机の上に撒き散らされていた。なお悪いことに、泥棒氏はあまりに何もないのに腹を立て、部屋で暴れたらしい。私
が後生大事にとっておいたイラストレーター時代のインク壺をひっくり返し、部屋の中は真っ黒にしていた。そしてそのインクが、タンスから投げ出された私の服に染みわたって、ほとんどを喪服のようにしていた。
「ああ・・・」
 私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。ひどい眩暈が起こったのだ。しかし御手洗は全く意に関せず、「ああそりゃ可哀想にね! 君の部屋から先に入られたのが運の尽きだ。しかしまあ無理もない。まともな泥棒ならそうするだろう」 と訳の分からないことばかり言う。ますます眩暈が悪化する。
「ところで石岡君、原稿はいいのかい。犯人の性格から考えて、盗まれている可能性は十二分にあると僕は思うが」
と言った。少し引っかかる口振りだったが、私は慌ててデスクに駆け寄った。
 床に散乱している原稿を拾い集め、順番を確認してみるとどうやら無事のようだった。ほっとして右を見ると、御手洗のスピーカーがどんと居を構えている。なんだか無性に腹が立った。
「ああ腹が立つ! 何で僕のものばかりが被害にあって、君のものは全部無事なんだい!?」
 御手洗は悪戯っぽく笑った。
「そりゃあ君・・・、まあいい。取り敢えず、片づけるとしようじゃないか」

 一通り部屋を片づけ終わると、御手洗はふう、と言ってソファに座った。私は、何となく紅茶を飲みたい気分だったので、コンロに向かった。するとなぜか、すでに薬缶にお湯が沸いていた。
「おい御手洗。君がこれ、沸かしたのかい」
「いや、部屋に入ったら薬缶が火に掛けてあったから、取り敢えず止めたのさ」
 意味がまたよく分からなかったが、なんだかどうでもよくなってきたので、私は棚から紅茶葉を出して、紅茶を作った。
 テーブルの上にカップを置くと、御手洗はすぐに呑みだした。
 一息つくと、我々は話し始めた。
「ええと、何だったっけ」
 御手洗はとぼけている。私は少し怒りの交じった口調で言った。
「だから、なぜ君の持ち物だけが無事で、僕の持っているものが全部荒らされているのか、ということだ」
「ああ、そうだった。そう、でもそれは、見れば分かるだろ?」
 そう言うと御手洗はうーんと伸びをした。
「だから分からないよ! もうここに来てから分からないことだらけだ!」
「しかし、責任の一端は君にあるんだぜ」
「なぜだ! 留守中に入った泥棒の責任をなぜ僕が負わなきゃならない!?」
「だから・・・、それこそ、さっきの女性の話と同じさ」
 そして御手洗は、いつものあの、右眉だけをぐっと下に下げる、独特の表情をし、そして皮肉っぽく両手を広げた。
「あの女性に関しては、もしかしたら全責任が君にある」
「は!? もうさっぱり分からないぞ! ああ頭が痛くなってきた!」
「そんなに興奮することないよ・・・、そうだね、取り敢えず、君の持ち物ばかり狙われている、と君は言っていたね」
「事実そうじゃないか」
「ところが違うんだ」
「なぜ!」
「だから・・・、君の部屋から先に侵入しようとするというのは、極めて自然な心理だ。なぜなら君の部屋の窓は、本来なら廊下側に向かってあるはずなのに、前の住人のお陰で見事に潰してある(『セント・ニコラスと、ダイヤモンドの靴』より)。だからそれは、外から見ればすぐに分かることだ。そうだろ?
 ということは、犯人は僕らの部屋に泥棒に入ろうと決心したとき、こう思ったはずだ。『こっちの部屋は窓が潰されていて脱出は難しい。先に入って、さっさと調べよう』ってね。僕の部屋やリヴィングの場合は、ことの途中でもし僕らが帰ってきても、最悪ヴェランダから外に逃げることが出来る(『近況報告』より)。頑張れば下の階のヴェランダに降りるなんてことも出来なくはない。さっきのおばさんの情報が正しければ、この下にはあの不幸な女性が住んでいたわけだから、上手いことすればあの女性を縛り上げて逃げ出すことだって出来る。きっとそこまで計算済みだったんだろうね。つまり、誰だってこの部屋に侵入するときは、取り敢えず君の部屋から調べ出す、ということだ。
 というわけでその泥棒氏はセオリー通り、侵入一番君の部屋に直行した。そしてあまりの物の無さに絶望し、期待はずれぶりに憤慨した。もしかしたら、窓が潰されているぐらいだから、何か大事な物が保管されているとでも思ったのかも知れない。
 そしてその激昂した泥棒氏は、君の部屋で大暴れした、というわけだ」
 はあ、と私は御手洗の冷静な推理に、一瞬感心した。そこまでは考えなかった。しかし、ならばこのように泥棒が入った場合、私の部屋はまず百パーセント被害に遭うが、御手洗の方は幾分助かる確率があるということだ。すると、「ちょっと待て御手洗。もしかして君は、部屋決めの時にすでにそこまで看破していて、それで今の部屋に決めたんじゃないだろうね?」
 私がそう言うと、御手洗はなんだか目を逸らした。
 気まずい空気が流れた。
「・・・ま、ともかくそういうわけで、君の部屋が襲撃されたってわけさ」
「おい話を逸らすな! それに、このリヴィングだってそうだ。僕の使っている食器棚やら、僕の書いていた原稿やら。何で一番金になりそうな君のステレオセットやスピーカーが見逃されているんだ?」
 すると御手洗はちっちっと舌を鳴らした。
「おいおい石岡君、落ち着いてくれよ。ここがどこだと思ってるんだ。ビルの五階だぜ。大規模な窃盗団ならともかく、個人営業の泥棒が、あんな巨大なセットを一人で担ぎおろせるわけがないじゃないか。前ここに運び込んだとき、二人がかりだって苦労しただろう、忘れたのかい?」
 私はしばらく何も言えなかった。しかし、よく考えてみるとそれはおかしかった。
「いや、確かにスピーカーが盗まれていない理由は分かったが、しかし僕のものばかりが狙われた説明にはなっていないよ」
「うーん、それはねえ」
 御手洗は考え込んだ。そして、紅茶を飲み干すと、三十秒ほど口を利かなくなった。こうなってしまってはどうしようもないので、私は、他に何か盗られたものはないかとリヴィングを見渡していた。
 と、御手洗が顔を上げた。
「何か思いついたのか?」
と私は尋ねた。御手洗は、
「うーん、強いて言うなら・・・」
としばらく逡巡した。
「なんだい」
「うーん・・・、軽いから、かな」
「は?」
 今度もまた意味不明である。
「軽いから?」
 私は御手洗を確かめるように尋ねた。またどこかおかしくなっているのでは、と疑ったのだ。御手洗は、「うん、だって、スピーカーを投げつけるわけにはいかないだろう?」とのたまった。
 もう私はついていけなくなったので(もう何年も前からそうだったが)、はあ、とため息を付いて、ゆっくり紅茶を飲み、気持ちを落ち着かせた。水晶のピラミッド事件の時以来の錯乱ぶりである。あのとき、レオナが事件を依頼しに来たときも、御手洗はこれぐらい壊れていた。
 私は、患者に向かう精神科医のような口調で、優しく言った。
「うん、そりゃあそうだ。スピーカーを投げつけてはいけないね」
「だろう? だからまあ、こうなるわけだ。まあ窓が割れていなかったのはありがたく思わなきゃならないが。いや実際、レコードもCDも危ういところだったわけだ。うん」
 ますますよく分からない。旅行が長かったのがいけなかったのだろうか。
 私が次に何を言ったものか迷っていると、御手洗は急に立ち上がった。私は狼狽した。
「ということは、おそらく下は・・・、うん。すると、隣なのかな。まさか上ということはあるまい。ははあ」
 そういうと御手洗は、いきなりくるりと後ろを向くと、ドアに向かって駆け出した。
 なんてことだ! 言葉だけならまだしも、行動までおかしくなるのは、「占星術」以来である。私は一瞬、状況が把握できなかった。しかし、御手洗が激しくドアを開け、外に飛び出していくと、私もようやくショックによる金縛りから解かれ、急いで外に向かった。
 廊下の柵を乗り越えて落ちていやしないかと、私はまず下を見た。しかしどうやら何もない。
 安心して横を向くと、何と御手洗はまだすぐそこにいる。隣の部屋のドアを見つめて、何やら小声でぶつぶつ言っている。そしてニッと笑うと、階段に向かって駆け出した。私も大急ぎで後を追った。
 駆け抜ける途中でふと、御手洗が見つめていたドアを見ると、ネームプレートのところに、丸文字で「柚木あかね」と書かれた紙が差し込まれているのが見えた。
カラーのマジックペンで、しかも名前の横には何かファンシーなキャラクターのシールが貼り付けてある。
 確か隣は空き部屋だったはずだが、と思ったが、今はそれどころではないので、忘れることにして御手洗を追った。
 急いで四階に下り、更に三階に行こうとすると、四階の廊下を駆け抜ける御手洗が見えた。慌てて方向転換をして、四階の廊下へ向かう。
 そのままの勢いで四階の突き当たりの部屋に走り込んでいった御手洗を追って、私も必死で廊下を走る。息を切らしてドアを開け、さあ部屋の中を探そうと顔を前に向けると、大きな背中にぶつかった。
 ぜいぜい言いながらぶつけた鼻を擦ってよく前を見ると、私がぶつかったのは御手洗らしい。
「おい御手洗、僕を殺す気か!? 僕はもういい年なんだ、こんなに走らせないでくれ!」
 すると御手洗は、ゆっくりと振り向いて、新しい生き物でも見るような目つきで私を見た。
「おや石岡君。何で君がこの部屋にいるんだい?」
「何でも何もあるか! 君がいきなり訳の分からないことを言って駆け出すから、心配して追ってきたんじゃないか!」
「ああそうかい。まあ君も運動不足もいいところだからね、たまには走るのもいいだろう」
「僕を走らすためにあんなことをしたのか・・・」
 私は、涙が出そうになった。
「まさか。僕はそんなに暇じゃない。運動なら自分一人でやってくれ。そうじゃなくて、僕はこの部屋を確認しに来たのさ」
「確認?」
「さあ石岡君。ここは僕らの部屋の真下の部屋だ。ここに何がある?」
 そう言われて私はようやく落ち着いて部屋を見渡した。
 間取りは全く私たちの部屋と同じである。しかし、何もなかった。壁にも、床にも、家具一つとしてなかった。
「何もないじゃないか」
「その通り。ここは空き部屋なんだ。だから僕も入れたんだけどね」
「だからそれがどうした!?」
 私は疲れて、座り込みたくなってきた。
「だから、さっきのおばさんが言ってただろう、『あの女性は僕らの部屋の真下から落ちてきたようだ』って」
「ああ・・・」
 そんなことすっかり忘れていた。御手洗のことに気を取られて、他のことなど綺麗さっぱり失念してしまっていた。
「それなのにここには何もない。なぜだろうね」
 御手洗はにやにや笑っている。正直私はどうでもいいと思ったが、何も言わないのも変なので、こう答えた。
「あのおばさんが間違えたんだろう」
「いや、それはない。これより下の階だとすると、普通に歩いている人からも見える高さになってしまう。それでは落ちてくるところが目撃されてしまうだろうし、目撃者がいるとすれば、あの根性のあるおばさんのことだから、必ず情報を得ているはずだ。しかし知らないようだった。とすれば目撃者もいないわけだし、するとこれより上の階と言うことになる。すると今度は別の問題が現れる。あまり高い階になってしまうと、あの女性は助からない。今だって息があったのが奇跡みたいなもんだ、六階、七階とかになっては、もう間違いなく死んでしまうだろう。かといって部屋が隣にずれていたのかと言えば、トラックの位置から言ってもそれは有り得ない。すると答は一つだ」
「なんだい」
 私は極めて気がなく言った。御手洗はまたにやりと笑うと言った。
「端的に言ってしまえば、すべての原因は君にある、ということさ」
「なんだって?」
 私は事件が起こったとき、おそらくはタクシーか、飛行機の中だったはずだ。
私は何もしていない。それなのに御手洗はしつこく私のせいだ私に責任があるという。寝込みたくなってきた。
「どういう意味だそれは!?」
 私が半ばやけになって訊くと、御手洗はふっと息を抜いてこう答えた。
「例によって、女性の執念の怖さ、というヤツさ」

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作者からの挑戦状
 以上の中にすべてのヒントは隠されている。要点はただ一つ、「御手洗氏らの留守中に部屋で何が行われていたか」である。明確な証拠はないが、想像するだけの根拠はある。
 なぜ御手洗氏の部屋だけは無事だったのか、なぜリヴィングは荒らされていたのか、なぜ女性は落下する羽目になったのか、なぜ薬缶にお湯が沸かされていたのか。  
  そして石岡氏の責任とは何か。
 あなたは看破することが出来ただろうか。

 私たちが一階に下りてみると、警察による現場検証が行われていた。小さな事件らしく、仕切っているのはまだ若い刑事である。しかもずいぶん小柄だ。
「ほら、そこ、ちゃんと動く! 見逃しちゃダメだろ! ほら、ちゃんと俺の言うことを聞け!」
 小さな刑事が妙に高い声で部下(といっても全員彼より背が高い)に指示を出しているのを聞いて、御手洗は苦笑した。
「彼も一生懸命、上司の口振りを模倣しているね。上司から受けた不愉快な命令や行動を、彼はそのままそっくりコピーして自分の部下に使う。自分が受けた仕打ちを受けないヤツがいるのはずるい、という貧相な発想だ。そして彼の部下も、それを真似して自分の部下に伝える。こうして悪しき習慣は永遠に受け継がれていくのさ。情けないもんだ。自分の代で止めようという発想がどうしても出来ない。日本人の最もみみっちいところの発露だね」と酷罵した。私はといえば、正直その小さい刑事の気持ちが分かったので、何も言うことが出来なかった。御手洗はふん、と言うと、そのままその小さい刑事のところに寄っていった。
「ちょっとすいません」
と御手洗は小柄な刑事に声を掛けた。刑事は振り返りもせずに嫌な口調でこう言った。「なんだね、今忙しいんだ。話があるなら部下にしてくれないか。私は現場主任、聴取の担当は部下だ」
 「主任」と言うところが少しだけ得意げだった。初の現場主任なのだろうか。
この若さで主任を任されるとは、もしかしたら彼は、いわゆるエリート組の人間なのかも知れない。
 御手洗はそれでもくじけずに続けた。
「ですからね主任さん、僕は、あの落ちていった柚木さんの搬送先を聞きたいだけなんです」
 御手洗は言葉巧みに刑事をおだてた。さりげなく「主任」という言葉を織り交ぜて、刑事の衒気をくすぐる。
 案の定刑事は乗ってきた。
「ん? 君は知り合いなのかね、柚木さんの」
 ここで少し離れて聞いていた私は気が付いた。先ほど御手洗は、落下した女性のことをはっきりと「柚木さん」と言いきった。だから刑事は信用したのかも知れない。
 しかし、御手洗はどこでその名前を知ったのだろう。あの野次馬根性旺盛なおばさんですら知らなかった情報である。だが、どこかで聞いたような名でもあった。
何だったか。
 思い出した。そう、少し前、いきなり部屋を飛び出してすぐに、御手洗が見ていたドアのネームプレートに書いてあったのだ。御手洗に気を取られていてすっかり忘れていたが、いつの間にか隣に人が越してきていたのである。しかしなぜ、そのお隣さんが落ちた女性だと特定できたのだろう。彼女の部屋から落ちてきたのだとしても、位置がおかしい。トラックの位置からしても、落ちたのは向かって左側の部屋のどれかであるはずだ。
 私が悩んでいるうちに、その小柄な刑事は振り向いた。そして、見上げた。
 無理もない、御手洗は百八十ほどの長身である。刑事とは三十センチメートル以上差がある。
 振り向いた刑事は、一瞬振り向いたことを後悔したような表情を見せた。自負心をくすぐられて振り向いたら思いっきり劣等感を抱かされたのである。しかし、何とか刑事はひるむことなく、言葉を続けた。
「な、なんだっけ、柚木さんの搬送先が知りたいんだったかな?」
「ええ、そうです」
「よし分かった、教えてあげよう」
 その情報を教えることがとんでもなく大変なこととでもいうような口振りで刑事は手帳をめくり始めた。今や、御手洗に対して優位に立っている点が、そこだけなのである。
「えーと、あった。市立櫻川総合病院だ」
「ありがとうございます」
「電話番号もいるかね」
「いえ、タクシーを拾っていきますので」
 そう言って御手洗はこちらに戻ってきた。そしてもう一度振り返り、「そうだ、主任さん、失礼ですが、お名前は何とおっしゃるのですか?」
と尋ねた。途端に刑事は、どこかで見たような堪らなく嫌そうな顔つきをした。
さんざん迷った挙げ句、刑事は言った。
「大木奈だ」

 私は拾ったタクシーの中で大爆笑した。
「あーはっはっは、いやー、まさか、そんな、はは」
 しかし御手洗は真面目な顔つきを崩さなかった。それどころか、堪らなく嫌そうな顔つきをした。
「石岡君、そんなに笑うもんじゃない。名字というものはどうしようもないものだし、彼の身長だって一概に彼に責任があるとは言えない。事情も何も聞かずに笑うのは、大変失礼なことだと思うね」
 しかし私は、笑いを抑えることが出来なかった。
「いやそうじゃない、彼が一瞬とった顔つきが、君が自己紹介を強いられるときにする顔つきとそっくりだったからさ。あの嫌そうな顔。あーおかしい」
 すると御手洗はますますむっつりしてしまった。
 私はようやく落ち着くと、
「ところで御手洗、僕らは今から何をしにいくんだい」
と尋ねた。途端に御手洗は仕返しのチャンスと見たか、精一杯左眉をつり上げて、あの人を小馬鹿にしたような顔になって言った。
「まだ気付いてなかったのかい石岡君。もうそろそろ真相に気付いてもいいころじゃないのかい。これだけ単純なことなのだからね。
 ま、少なくとも、彼女がどこから落ちたのかくらいは、分かっていて欲しいものだけどね」
 そう言われて、私は少し考えた。しかし分からなかった。
「分からない」
「ろくに考えずにそんなこと言うもんじゃない。さっき説明しただろう。四階より下ではばれる、四階より上では死ぬ確率が上がる、そうなったら一番自然な場所は?」
「あの、四階の空き部屋か?」
「何であんな何もない空っぽの部屋で、一人うっかりヴェランダから転げ落ちなきゃならないんだい。どんな間抜けだってそんな情けない失敗しないよ。そうじゃない」
「するとどこだ」
「決まってるじゃないか。僕たちの部屋さ」
「何だって!?」
 私は予想もしなかった答にずいぶん驚いてしまった。
「当たり前だろう。四階より下でも、もっと上でもダメ、おまけにその四階の空き部屋は有り得ない、そうなったら残っているのは僕らの部屋だけだ」
「五階から落ちて彼女は助かったのか・・・」
 何だか信じられない気がした。
「そうとしか考えられないだろう? まあ、あの大きな運送用トラックは、一階分ぐらいの高さはある。落下の衝撃もマイナス一階分だ。しかも、車の上に落ちた、という点も重要だね。プロのスタントマンなら、あれくらいの高さからトラックの上に落ちるくらいなら、上手くやれば何とかならないこともない」
「彼女はプロスタントマンか?」
 私がそう言うと、御手洗は少し考えた。
「そういう意味ではないんだが・・・、とにかく、上手くすれば命は助かる、ということさ。
 まあ僕らの部屋より上でもダメとはいわないが、確率は徐々に下がる。大体、あのビルで僕らの上の部屋に入居者なんていたかな。ほとんどいないだろうね。そうなると、彼女がいると考えられるのは僕らの部屋しかない」
「しかし、そうなるといったいなぜ、彼女は僕らの部屋に・・・?」
 私がそこまで言うと御手洗は、呆れ返ったような目つきで私を見た。不快になって私は目を逸らした。
 するとそのとき、私は閃いた。そうか、彼女が泥棒だったのだ。
 彼女が泥棒だとすれば、すべての謎は解ける。私たちに前から目を付けていて、隣の部屋に越してくる。旅行に行った隙を見計らって、部屋に忍び込む。あのビルは、
各階各部屋の構造はほとんど同じだから、迷うことはない。そして私の部屋に早速入り、物色し、そして、「そして何なんだ?」
 そこまで御手洗に話して、私は気付いた。御手洗は相変わらず呆れた目つきでいる。
「そうだよ石岡君、だから何なんだ? 部屋に忍び込んだ泥棒が、物色していた部屋があまりに仕事にならないことに腹を立て発狂し、リヴィングを嵐のように暴れ回りながら通過、僕の部屋を無視してヴェランダに出て、そしてそのままうっかり転落してしまったのかい? 滅茶苦茶じゃないか」
 確かにそうだ。すると、私の推理は間違っていたらしい。そう御手洗に訊くと、「うん、ある一点を除いては、すべて間違ってるね」
と言った。
「ある一点? そりゃなんだ」
 すると御手洗は、ふう、とため息を付いたきり、「後で説明するよ」と言ったまま、黙りこくってしまった。私も何も言うことが出来ないので、黙ったままでいる。
 そのまましばらく私たちは黙ったままだった。
 病院に着いたとき、御手洗が一言、こう言った。
「さあ、相手は大変かな。何て言うだろう。でもま、体は弱っているからいくらか静かだろうな」
 どういう意味なのだろうか。

 ナースステーションでその「柚木さん」の病室を聞いた。三一八号室だそうだ。傷は思ったほどひどくなく、もうすでに面会も可能だという。私たちはそこへ向かった。
 御手洗は病室の前で咳払いをすると、ゆっくり二回、ドアを叩いた。「ハーイ」と若い女性の声で返事がある。御手洗はドアを開けた。
 御手洗が入っていくと、何か悲鳴のようなものが聞こえた。
「柚木あかねさんですね」
 御手洗が声を掛けても、返事は帰ってこない。私がベッドのほうを見ると、掛け布団の山がベッドの上で揺れていた。御手洗は呆れたような顔を私の方へ向けると、ベッドに近寄っていった。私も一緒に近寄ってみる。
「柚木さんですか?」
 再び御手洗は声を掛けてみた。掛け布団の振動が止まる。そして、ゆっくりと枕の方から黒いものが出てきた。髪の毛のようだった。白い包帯が巻かれている。
 にゅっと頭が出る。長い髪に意志の強そうな太い眉、しかしすっと整った顔立ちで、明らかに狼狽えた表情である。とても可愛らしい顔の人だった。
「あ、の」
 ゆっくりと口が動いた。もしかしたら何か障碍が出たのでは、と私は不安になった。
「御手洗さんですか?」
「はい」
 御手洗は答えた。
 途端にせっかく出た頭は引っ込み、また激しく震えだした。そして、「わーごめんなさいごめんなさいごめんなさい、私が悪かったです許して許して許してー!」
と叫びだした。御手洗はそれを見ると心底うんざりしたような表情で、しかし声は優しくこう言った。
「別に僕は怒ってなんかいませんよ。石岡君だってそうです。ねえ石岡君」
「え、ああ、うん」
 怒るも何も、まだ彼女が何をしたのかさっぱり分からない。
 私がそう言うと、また彼女の頭がにゅっと飛び出してきた。
「え、石岡先生いらっしゃるんですか!」
 御手洗は、ふっと笑って言った。
「ええ、こちらが小説家の石岡和己先生です」
 私はなぜか赤面した。
「おい御手洗、なんだいきなり」
 するとその女性――御手洗が言うのが正しいとすれば、柚木あかねさん――は、ますます興奮した口調になって言った。
「ほ、ホントに? ヒャアァー!」
と病室で叫んだ。私は、看護婦さんが駆けつけてこないかと心配した。
「うわあ、本物の石岡先生って、こんな顔してるんだ、うわあ」
 喜んでくれているなら結構だが、がっかりしているのかもしれない。よく分からなかった。御手洗は続けてこう言った。
「ええ、泣いても笑ってもあなたの大好きな石岡先生は本当はこんな顔なんです。偽物に騙されてはいけません」
「偽物!? おい、偽物って」
と私がつい大声で言うと、病室のドアががらっと開いた。そして、恐い顔をした看護婦さんが私の方を向いて、「病室ではお静かに!」
と言った。私は、慌てて頭を下げた。看護婦さんは憮然とした顔で去っていった。何で私だけが怒られるのだ。
 しかしそんなことはどうでもいい。私は声を潜めて再び言った。
「御手洗、僕の偽物というのはいったいなんだ」
「それはね石岡君、こちらの柚木さんがよくご存知だよ。ねえ、柚木さん」
 柚木さんはそう言われると、ベッドの上でぺこりと頭を下げた。
「すみません」
「いや、いくらそう謝られても、何が何だか」
「分かった、僕が説明するよ」

「ことの始まりは、この柚木さんが僕らの旅行中にとなりに越してきたことから始まった」
 御手洗は語りだした。
「僕は初めから、独身の女性が越してきたと聞いて不審に思った。どう考えてもおかしい。だってあのビルは、独身女性が住むには殺風景すぎるし、間取りが不都合だ。僕らのような変わったのは別として、たいていの人間はオフィスとして利用する。大体、あそこの家賃が出せるなら、もっといい場所に建ったもっといい間取りのマンションに住めるはずだ。するとなぜ彼女はあんなところに引っ越してきたのか。考えられる理由は一つだ。
 彼女は、僕ら目当てであそこに引っ越して来たのさ」
「なんだって!?」
 私は驚いて柚木さんを見た。思わず目が合う。すると彼女はひどく赤面した。それを見て、御手洗はニヤリと笑った。
「より正確に言うなら、石岡君、君目当てだ」
「え!?」
 私は完全に驚いてしまった。御手洗目当てならまだ分かるが、私など、見に来たところで何も面白くない。道端の蟻の行列でも見ていたほうがよほど面白い。
「つまり、彼女は筋金入りの石岡和己ファンなんだ。
 石岡君、君の文章ではね、僕に関する描写はやたらと出てくるくせに、君自身の容姿に関する描写は皆無と言ってもいい。これは不公平じゃないのかい。僕の姿は割と簡単に想像できるのに、彼女のような君の熱烈なファンは、残念なことに薄ぼんやりとした姿しか思い浮かぶことが出来ないのさ。大抵のファンはここで諦めるが、彼女は違った。持ち前の行動力を生かし、何と、本当に僕らの隣に越してきてしまったんだ。ここが君に責任があると言った第一の点だ」
「第一の?」
「まだまだある。今回の事件は君にほとんどの責任があると言っただろう?とにかく、せっかく彼女はわざわざ僕らの隣に越してきた。これでようやく憧れの石岡先生のお姿を毎日拝める。ところが僕らは申し訳ないことに、長期旅行中だった。並みの熱烈なファンならここで諦める。ところが彼女は違った」
「まだ違うのか」
「ああ、彼女の君に対する思いは半端じゃないぜ。彼女はすっかりがっかりしてしまった。まあいずれ帰ってくることは分かっているが、そのしばらくが彼女は耐えられなかった。そこで彼女は、僕らの家に忍び込むことを決意した」
「なに!?」
 私がそう言った途端に、また病室のドアが開いて、さっきと同じ恐い看護婦さんが来た。
「あんまりうるさいと、出てってもらいますよ!」
「ごめんなさい」
 私が素直に謝ると、看護婦さんは鼻息荒く戻っていった。
「どこまで言ったっけ?」
 御手洗は言った。
「その、彼女が忍び込むことを決意した、と言うところまでだ」
 私がそう言うと、彼女は必死で否定した。
「違います、忍び込もうとしたんじゃありません! あんまり悔しかったんで、部屋の方へ行って、ドアノブを捻ったら開いたんで・・・」
「ああなるほど、確かにその通りですね」
と御手洗は納得した口調で言った。
「まあとにかく、彼女がドアノブに手を掛けると、不思議なことに開いたんだ。
そし
て彼女は中に入る。すると、ある人物がいるんだ」
「誰だそれは?」
「泥棒氏さ」
 やはりいたのか!
「ここでもう一人の登場人物を紹介しよう。僕らの部屋に忍び込んだ泥棒氏さ。
彼は
・・・」
「おい御手洗、君は簡単に『彼』と言うが、まだ性別までは・・・」
「男なんだよ、間違いない。そうですね、柚木さん」
 すると柚木さんはこくりと頷いた。私は混乱した。
「なぜ分かったんだ?」
「もうちょっと聞いていれば分かるよ。そうでなきゃおかしいんだ。有り得ない。さて、さっき僕が言ったように、その彼、泥棒氏は部屋に忍び込んで色々物色していた。ここで君に第二の責任が生じる」
「なんだそれは」
「なぜ泥棒氏がうちなんかを狙ったのか、不思議に思わないのか?おそらく彼は、君が書いた文章のどれかを読んで、うちには金があると思い込んだんだろう。君、どこかで大金を手に入れた、とか書かなかったかい?」
 すると柚木さんが元気よく答えた。
「それきっと、『ギリシャの犬』ですよ、『御手洗潔の挨拶』の!あれの中で先生、『例の水晶のピラミッド事件のお礼を』大富豪からもらった、って書いてましたもん。先生たち、あのアメリカの事件にも関わってたんですよね? あの松崎レオナの映画の」
「ああ、うん」
「うわー、それ、まだ書かれないんですか?」
「え、ああ、まだ、ちょっとね」
 この当時、私はまだ、「水晶のピラミッド」は著していなかった。
 御手洗はふんと鼻を鳴らして言った。
「とにかく、石岡君が文章の中でそんなことを大胆にも書いていたがために、我が家は泥棒に襲われ、柚木さんはビルから転落する羽目になったわけだ。分かったかい石岡君」
 私はすっかり責任を感じ、萎れていた。柚木さんが慰めるように言った。
「気にしないで下さい先生、私全然気にしてませんし」
 普通ビルの五階から落ちたら気にするだろう。
「あそうだ君、怪我大丈夫なの?」
「はい、打ち身と足の骨折と、あと軽く頭を切っただけですみました」
 そう言って彼女は布団をめくって、足にはめた大きなギプスを見せた。
 実際、よく死ななかったものだ。
「まあ柚木さんが大変運が良く、また体力も素晴らしい人だったから石岡君も助かったが、これで万一のことがあったら君は一生立ち直れなかっただろう?」
 御手洗がさらっと嫌なことを言う。
「さて、泥棒氏はそんなこんなで君の部屋を荒らし、何もなかったので大いに憤慨した。一暴れして満足し、さあ次のヴェランダ側、つまり僕の部屋にかかろう、と君の部屋から出てきた。そこにばったり出くわしたのが柚木さんだ」
「ああ!」
「泥棒氏は大いに慌てた。まさかこんな突き当たりの部屋に間違えて入ってくるヤツはいないだろうと思っているし、家主はまだ帰ってくるとは思っていなかった。実際はニアミスだったんだが。どうやって逃げようか困っている泥棒氏に、柚木さんはこう声を掛けた。『石岡先生ですか?』とね」
「なるほど!」
「泥棒氏はこれはしめた、と思った。本を読んでねらいを定めたくらいだから、君の名前ぐらいは知っているだろう。そしてどうやら、その珍入者――柚木さんのことだが、彼女はどうやら、自分のことをその『石岡先生』だと思い込んでいる。そこで彼はそれを利用したんだ。なんとかその石岡先生になりきって見せたんだ。こんな嘘が通じるのも、自分の姿形をはっきり書かない君に責任がある。これが三つ目」
 だから御手洗は、あっさり泥棒の性別まで断じて見せたのか。しかし、なぜ彼女がそんな勘違いをした、と分かったのだろうか。御手洗は説明を続ける。
「柚木さんはおそらく、無断で侵入したことを詫びただろう。そして、泥棒氏の計算ではこれで柚木さんが帰り、その後でゆっくりと家捜しを続けるなり、逃げ出すなり出来たはずだったんだ。ところが柚木さんはやっぱり並みじゃなかった。お目当ての石岡先生に会えて感激のあまり、おそらくいつもは持ち合わせている分別や遠慮と言ったものを、すっかり忘れ去ってしまったんだろうね。彼女はそのまま乗り込んだ」
 柚木さんはそれを聞いて、ますます真っ赤になった。
「一方泥棒氏は慌てた。まさか忍び込もうとしたところを見つかった人間が、そのままお茶に上がろうと動くなどとは思っていない。どうしたものかと大いに迷った。しかし今更どうしようもない。そのまま石岡先生を演じ続けた。
 取り敢えず柚木さんにソファを勧め、しばらく茶を飲み、会話をし、適当なところを見計らって買い物にでも行くふりをして、そのまま逃げ出す算段だったんだろう。
 そこでまず彼は湯を沸かした。それが石岡君、さっきの薬缶だ。僕はあれを見て、おそらくここで二人が、しばらく愉快な時間を過ごしたのだろうと見当をつけたんだ。そこから溯って考えて、彼女が泥棒を石岡君と間違えたのだと分かったんだ。僕は君の写実的な文章のお陰で、取り違えられる気遣いはない。しかし、その会話で何かぼろが出て、偽物だと知れたんだろう」
 そうですね、と確かめるように、御手洗は柚木さんに尋ねた。
 柚木さんは、ええ、と言った。
「その、偽物の泥棒は、台所でインスタントコーヒーを探し始めたんです」
 ああ、と私と御手洗は納得した。そう、うちには、少なくともその頃はまだ、コーヒー類は一切なかった。
「でも変ですよね、『挨拶』を読んでいれば、お二人ともコーヒーは飲まないってことが分かるはずなのに」
 御手洗は笑って言った。
「きっと、真面目に読まなかったんでしょう。
 まあとにかく、一般常識とかいうものに従って、泥棒氏はコーヒーを探した。台所にはコーヒーがあるものと思ったわけだ。ところが運の悪いことに、こちらの柚木さんは石岡君の文章の熱心な読者だった。そこでことが露見した。
 偽物だと気付いた柚木さんは、それですっかり怒ってしまった。どんな会話が交わされたかは分かりませんが、おそらくは開き直った泥棒と柚木さんとの、大喧嘩が始まった。
 ソファをひっくり返し皿を投げつけ、机を投げ飛ばし柚木さんは勇敢にも泥棒と戦った。本気で喧嘩するときの女性は手加減をしませんからね、相手がどうなろうと構わずに猛烈な攻撃を仕掛ける。辺りにあるものを全部投げつけながら泥棒に攻撃し続ける。泥棒も相当なダメージを受けたことでしょう。しかし、相手もおそらくはプ
ロの泥棒だ、何か武器を持っていたのでしょう、違いますか?」
 柚木さんはそこで初めて、怯えたような顔ぶりになった。
「大きなジャックナイフを」
「なるほど。
 とにかく、泥棒はナイフをとりだして柚木さんに突きつけた。柚木さんはゆっくりと後ろに後ずさる、その道筋にある石岡君の原稿なんかを投げつけながらね」
「え、あれ先生の原稿だったんですか!? あー一枚ぐらいもらっとけばよかった」
 冗談じゃない。
「そしてそのまま下がっていった柚木さんは、やがてスピーカーの辺りまで来た。しかしさすがにスピーカーを投げつけるわけにはいかなかった」
「いえ、考えたんですけど」
「え!」
 御手洗の声が裏返った。
「ですから、スピーカーも投げようかと思ったんですけど、ちょっと高そうだったんで、やめとこっかなーと」
「持てるんですか?」
 私は訊いた。
「ええ。私柔道黒帯なんで、体力だけはあるんです」
「はあ・・・」
 道理で体が丈夫なはずだ。
 御手洗は少し慌てたが、すぐに持ち直して話を続けた。
「まあ、僕のステレオセットもスピーカーも危なかったわけですね。
 さて、追いつめられた柚木さんは、スピーカーを乗り越え、窓を開け、ヴェランダに出た。もう駄目かと思ったが、そのとき、泥棒は非道なことを考えていた」
「どんな?」
 私は訊いた。
「柚木さんをこのまま刺すより、突き落とした方が、後々処理が楽だ、ということさ。人を刺すと返り血なんかがあって色々と大変なんでね、こういった場合、そのまま突き落としてしまった方が早いし、証拠も残りにくい。しかも、ビルに大勢の人間が上ってくるからかえって逃げやすい」
「どうして? 人が集まったら逃げにくいだろう?」
 私は尋ねた。御手洗は呆れ顔で答えた。
「あのね、ビルから怪しい男が一人きりで出てくるよりも、大勢の野次馬に紛れ込んで逃げ出した方が見つかりにくいだろう? それにあれぐらいの高さからなら、突き落とすところを目撃される危険性も低いからね。人がビルから落ちてきたら多くの人間はとっさに自殺だと考える。だから部屋から逃げ出す時間も充分にある。まあ彼がそこまで考えたかどうかは分からないが、とにかくそのまま柚木さんは突き落とされ、泥棒はそこから逃走した。そこへ僕らがちょうど到着した、というわけさ」
 すっかり御手洗の説明に聞き入ってしまった。表に見えた面は何だか謎に満ちていたが、裏に返せば何だか滑稽な話だった。
 いや、柚木さんは滑稽では済まない。御手洗は続けて柚木さんに話しかけた。
「柚木さん、あなたは急いで警察に以上の話をしたほうがいい。僕らも初めは、何も盗られていないし警察沙汰にはしないつもりだったが、あなたにとっては殺害未遂だ。うちに対する住居不法侵入は目をつぶりますから、是非警察に相談したほうがいい。現場にいる刑事はどうやらまだまだ若手で、殺人未遂事件なんか扱えそうにもありませんから、知り合いのヴェテラン刑事を紹介しましょう」
 柚木さんは大変感動した様子で、ありがとうございます、と言った。

 そのあと、私は柚木さんに何度も握手を求められた上、入院中のお見舞いに、退院後には本にサイン、更に近所づきあいをすると言う約束まで取り付けられた。まあ、彼女のことだから、後少しすればすぐ退院できるだろう。握手も大変、力強かった。
 事件が落ち着いて、ようやく本当に静かに紅茶を飲める。私と御手洗は部屋に戻り、応接セットに腰掛けてお茶を飲んでいた。
 御手洗が口を開いた。
「実は僕も、初めこの部屋に入った瞬間は、あの柚木さんが犯人かと思ったんだ。どこかの暇な女の子が、君か僕のもの目当てで入ってきて、何かの手違いで転落したのかと思った。だから君の原稿が盗まれていないかと思ったんだ。ところが少し考えてみると、やはりおかしい」
「何がだ?」
「だって石岡君、どうせ君のことだから、部屋に入っていきなり男がいれば大騒ぎするだろうが、彼女ぐらいのいわゆる美人がいれば、何だかんだ言っても疑いもしないだろう。部屋に堂々と残って、何か記憶喪失にでもなるか、深刻な悩みを抱えているということにして、ふらふらと部屋に彷徨い込んだふりでもしておけば、彼女が泥棒
に入ったとして、途中で誰かが帰ってきても逃げ出す必要など全くない。少なくとも、僕なら慌てて逃げ出して転落なんかはしない。その段階で彼女は犯人から消えた。とすると、誰か別の人間がこの部屋にすでに入っていた、ということになる。ま、今頃その泥棒氏も、何一つものを盗れなかった上にひどい怪我まで負わされて、大いに後悔していることだろう」
 その言葉を聞いて、私は笑った。そしてこう言った。
「しかし彼女も、恐ろしく運がいい人だね。滅多にここの前にトラックなんか停まっていないだろう。トラックがなかったら今頃、間違いなく死んでいただろうに」
 すると御手洗はこんなことを言った。
「いや、あのトラックがあったのも無理はないんだ。なぜなら、あのトラックを呼んだのはおそらく、彼女自身なんだよ。残りの大きな荷物を運びこむのに、運送業者に頼んだんだろうね。きっと運送業者の皆さんも、依頼者が、来た途端に突然入院して困っていることだろうな。さて石岡君、何度も言うようだが、今回の事件には大いに君にも責任がある。よく胸に留めといてくれよ」
「ああ分かったよ。今後は泥棒に入られるような金に関する描写はなるべく控えるよ」
 すると、御手洗は半眼になって私を見つめた。また呆れている。
「石岡君、君は全く分かっちゃいない。そんなことはどうだっていいんだ。今回の事件のすべての原因は、一つ残らず君の書いた文章にあるんだ、と言っているんだよ」
「どういう意味だ?」
 今日、私は何度この台詞を言っただろう。
「だから・・・、柚木さんが君の顔を確かめようなんて思い立ったのも、泥棒氏がうちに目をつけたのも、その彼の妙な嘘が通りかけたのも、危うく柚木さんが死ぬところだったのも、すべて君の文章が原因だ。彼女が大変運のいい人でなかったら、今頃君は責任を感じて自殺していたかも知れない。いつも言っているように、あんな余計
な文章を書くからこういうこと面倒なことになるんだ。僕は今までだってずっと迷惑している。大体君があの文中に、我が家を簡単に特定できるような言葉を入れているから悪い」
「探偵事務所が住所を非公開にしてどうする」
「別にいいんだよ僕は。そもそも、君があんな文章を書くから世間のああいった暇な人たちが僕や君に無駄に関心を寄せるんだ」
「暇なんて言ったら失礼だろう」
「人間、やることはまだまだたくさんあるはずだよ。
 まあとにかくね、彼女にしろ、泥棒氏にしろ、君にしろ、他人のことにばかりやたらと関心を寄せるからこういうややこしいことになる。人のやることにばかり注目したり、文句をつけたりする前に、まずは自分の行動をかえりみて、改善していかなくちゃね。ま、取り敢えず君は、今回のような悲劇を再発させないためにも、今後は自作の中にどんどん明確な自分の容姿に関する描写をいれるようにしたまえ」
「嫌だよそんなナルシストみたいなこと」
「いいじゃないか。世の中物事を曖昧にしてるとろくなことがない。
 さ、柚木さんが丹下さんに連絡を取ったら、きっと彼は直接ここに駆けつけてくるぜ。それまでしばらく、久々の馬車道散歩としゃれ込もう。今度は泥棒に入られないよう、気をつけないとね」
 御手洗は気の早いことに立ち上がり、玄関の方へ歩き出した。私はふと、思い出した。
「おい御手洗、玄関の鍵はこじ開けられたままだぞ」
 すると御手洗は、振り返ってニヤリと笑い、こう言った。
「大丈夫。僕の部屋はちゃんと施錠してある」