Pの教室 
CLASS ROOM "PROBLEM"
The author だりむくれ

「僕はクラス全員から、『便所ソウジ』という驚くほど語呂の悪い、センスの欠如した仇名を頂戴した」「それっとばかり、ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイとはやしたてられるのだ」「高校までこんな状態が続いたんだぜ! ひどい話だろう?」
(異邦の騎士より)

 キヨシは今、クラスメイトの前に立っている。キヨシが辺りを見渡すと、どうもここは、アメリカのハイ・スクールのようだった。クラスメイト達が全員白人や黒人である。自分の姿を見ると、どうやら縮んで、この学校に通っていた当時の十四歳ぐらいの姿になっている。キヨシは同学年の高校生の中でも、ひときわ異色の存在だった。年齢通りジュニア・ハイ・スクールに通っていては、退屈でたまらなかったのだ。しかし、ハイ・スクールだとしても、キヨシにとっては大差なかった。クラスメイト達は、キヨシよりだいぶ大きい。キヨシが見上げなければならないほどだった。
 それからキヨシは、なぜ自分がクラスメイトの前に立っているのかを考えた。そう確か、先生に授業をするよう頼まれたような気がする。数学だ。キヨシは、よく先生に代わりを頼まれる。なぜなら、キヨシが「テンサイ」だからだ。
 キヨシが授業を始めようとすると、いつもと違って何だかみんな様子が変だった。みんな下を向いて、しかし目だけはキヨシの方を向いている。ひどく恐く強く睨み付けられている。みんながキヨシに何か恨みがあるようにしか見えなかった。キヨシは困惑しながらも、教科書を開き、授業を始めようとした。
「ええと、じゃあテキストの四十五ページを・・・」
 しかし、彼らは微動だにしない。
 キヨシが首を傾げると、突然横から大きな日本語の声がした。キヨシは飛び上がった。
「ハーイ、みなさーん! 今日は、お便所掃除を誰がやればいいか、決めてもらおうと思いまーす!」
 キヨシが驚いて横を見るとなぜか、キヨシが日本の小学校に通っていた頃の女性の担任の先生が立っていた。NHK教育の幼稚園〜小学校向け番組に出てくる、「おねえさん」のような雰囲気を醸し出していた。満面に笑みを浮かべて、小さな子ども達に話しかけているような表情である。キヨシは、先生が話しかけている生徒達をもう一度よく見た。先生よりよっぽど大きい巨漢ばかりである。何しろアメリカの高校生なのだ。しかも、みんな今にも人を殺しそうな顔でこちらを見ている。
 しかし、生徒達は従順に、ハーイと良いお返事をした。顔と声が矛盾している、とキヨシは思った。
「ハイ、そレでは、誰が良イ思いマすカー?」
 先生が変な発音で尋ねた。
 すると、席の中間あたりに座っていた、黒人のこれまた大きな、なまはげのような恐い顔をした女生徒が勢い良く手を挙げた。
「はい、エリザベスさん」
 先生は当てる。キヨシは唖然としたまま動けない。そのエリザベスさんは、なぜ日本語が分かったのか分からないが、鬼のような顔のままきちんと正確に返事をした。バス・サックスのような低い声であった。
「I think that Kiyoshi is the best person in the class to clean up toilets.(私は、キヨシがこのクラスの中で最も便所掃除をするのにぴったりの人物だと思います)」
 この教科書に載っているような堅苦しい文例通りの言葉を聞いて、先生はたまらなく嬉しそうに、「はい、エリザベスさん、よぉく出来ました!」と言った。キヨシは、この先生は英語が分かる人だっただろうか、そもそもこの人は日本では国語の先生ではなかっただろうか、と考えていた。しかし、もうそんなことはどうでもよかった。エリザベスさんは、怒ったゴリラのような顔を維持したまま腰掛けた。
「はい、ここでキヨシちゃんに五百十三票!」
 え、とキヨシは先生を見上げたが、綺麗に無視された。
 先生はにこにこ笑ったまま、しつこく日本語で問い続けた。
「さぁみなさん、このままだと、キヨシちゃんに決まっちゃいますよお」
 そりゃあんたが五百十三票も入れるからだろう、キヨシはと思ったが、何も言えな
かった。いいのかな、いいのかな、ほんとにこれで、いいのかな、と先生は沖縄民謡のような奇怪な踊りをしながらリズミカルに尋ねた。するとクラス全体から、突然大合唱が始まった。
「キーヨシちゃん、キーヨシちゃん、キーヨシちゃん、キーヨシちゃん」
 なぜか日本語である。男子生徒のバスと、女子生徒のアルト、ソプラノが混ざり合って、とても綺麗だ。混声三部合唱になっている。
 いつの間にか先生も加わり、合唱は勢いを失わずに続く。
「キーヨシちゃん、キーヨシちゃん、キーヨシちゃん、キーヨシちゃん」
 まるで新手の宗教団体のように、イジメの合唱は続く。キヨシは、耳を塞いでうずくまってしまった。すると途端に大合唱は止んだ。
 先生が、嬉しそうに大声で発表している。
「それでは、議員の三分の二以上の賛成により、都の条例に従って便所掃除はキヨシちゃんに決まりました。キヨシちゃん、いいですカー?」
 やっと先生はこっちの話を聞いてくれた。キヨシは慌てて言った。
「あの先生、そんなことより今は、数学の授業を」
 すると先生は、白目をむいて聞こえないふりをした。キヨシは困惑した。先生はもう一度聞いた。
「いいですカー?」
 キヨシはもうすっかり怒ってしまって、先生を無視して授業を始めることにした。
「それでは、今日は微分積分について」
 しかし生徒達は誰もキヨシの話を聞いていない。また新曲を歌い出した。
「ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ」
 一人残らずアメリカ人なのに(横に立っている先生以外)、キヨシの名前を日本語でひねっている。みんなが大声で繰り返す。誰だこいつらに日本語を教えたのは、先生か、もしかしてこの先生か、などとキヨシはぼんやりしたまま考えた。
「ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ」
 キヨシは何とか数学の授業を進めようとしたが、誰も聞いていないのではしても仕方がない。合唱の声はどんどん大きくなる。
「ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ」
 先生はキヨシの隣で、手拍子をしながら優しそうなほほえみを浮かべて見守っている。
「ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ」
 キヨシはイライラと顔を顰めると、耐えられなくなったのか、大声で怒鳴った。
「ぼくの授業を、聞けええええええええええ!」
 しかし教室は、まったく静まらない。キヨシは涙が溢れてきた。しかしここには、日本時代お気に入りだった、裏の池はない。猫もいない。キヨシは流れてきた涙を袖で拭い、鼻をこすると、ひくっ、ひくっと涙をこらえながら、トイレに向かって逃げ出した。

「皮肉なことに、ほかに一人になれる場所がないのさ」(異邦の騎士より)

 すると、その疎ましいクラスメイトも、うんざりするような先生も、キヨシの後を追って走ってついてきた。キヨシは全力で逃げた。先生達も全力で追いかけた。まだ歌っている。
「ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ、ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ」
 キヨシはトイレに駆け込み、個室に入って鍵をかけた。しかし、外から合唱は響いてくる。キヨシの涙は止まらない。ひくっ、ひくっ、とキヨシは泣き続けた。
「ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ、ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ、ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ、ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ、ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ、ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ、ヤーイ、ヤーイ、便所ソウジヤーイ・・・」

 御手洗はそこで、目が醒めた。がばっと起きあがる。息が荒い。目が醒めると馬車道の自分の家で、大いに安心する。実にしばしば、こんな夢を見る。少年期のトラウマというものは、こうも後々まで人間の人生に影響を及ぼすものなのだろうか。御手洗はため息を吐いた。

「・・・アメリカの学校には、当時飛び級というものがあった・・・中学時代から、御手洗のクラスの数学教師はしょっちゅう友人に授業を任せ、ガールフレンドと映画鑑賞に行ってしまうという調子であったから、御手洗という人物の存在は、仲間内ではかなり特殊なものであった・・・おまけにこの子が先生の代わりにみんなの前に出て授業をやる。これは確かに孤独であろうし、この孤独がさぞおかしな人格を作ったであろう。いやそんな他人事ふうな書き方をする必要はない、作ったのだ。私はそれをよく知っているし、また読者もよくご存知であろう」(「ボストン幽霊絵画事件」より)

 記憶が混濁している、と御手洗は思った。いや、初めからこんなだったか? 
だとすれば、アメリカのJHS(ジュニア・ハイ・スクール)やハイ・スクールのクラス
メイトがなぜ、日本語でいじめてくるんだ? 中学高校と、ぼくはほとんど年少の教師のようだったから、確かにいつだって嫌な目で見られてはいたが、それにしたってあんな幼稚なイジメをしてくるヤツなんて、アメリカにいたか? だとすればあれは、日本の光景とアメリカの光景が入り交じっているのだろうか。いやそもそも、日本でもアメリカでも、ぼくはいじめられたことなんかあっただろうか? 日本の小学校時代ぼくは、奇行が目立ったお陰で不審がられ、孤独だったんじゃなかったか?(「Pの密室」より)
 御手洗は不思議に思った。どうもその当時の様子が判然としない。むしろ、その辺りの記憶が薄布のように二重に折り重なって、自分の中に存在しているかのようだった。
 ともかくも、寝ている間もこんな訳の分からない夢ばかりしょっちゅう見ていては、やっていられない。御手洗は、ベッドの上で再び大きくため息を吐くと、こう言った。
「ああ疲れた」



※参考 「改訂完全版 異邦の騎士 講談社文庫版」
    「御手洗潔のダンス 講談社文庫版」より「近況報告」
    「御手洗潔のメロディ 講談社ノヴェルス版」より「ボストン幽霊絵画事件」
    「Pの密室 講談社ノヴェルス版」より「Pの密室」
※注 御手洗の一連の事件簿を読んでいて、不思議に思ったことを何のひねりも加えずにそのまま小説にしてみました。作者に悪意はありません。念のため。