登場人物
楠木白水…植物研究家、菊花亭の主
楠木芳江…白水の妻、2年前に自殺
楠木真一…白水の長男。会社員
楠木菊枝…真一の妻
楠木百合子…真一の長女
楠木桜…真一の次女
ニコライ・ラルース…白水の客人。植物研究家
板垣正…白水の助手
野々宮天空…天才奇術師
大島…長野県警刑事
御手洗潔…探偵
石岡和己…その友人。作家
藍ちゃんの話では、「黒死館」には似ても似つかぬ家だが、薔薇園ぐらいはあるということだったのに、一本きりというのは侘しすぎる。
中井英夫 「虚無への供物」
1 最初はスミレ
奇妙な人物が私たちの家を訪れたのは、そう、今からもう何年も前、まだ御手洗が日本にいた頃である。その奇妙な人物とは、髪を短く切ってサングラスをし、皮の上着に黒いスラックスを履いた女性だった。いや、女性のように見える、と言った方が良いかもしれない。私たちは、この人物と待ち合わせをしていたのだ。というのは、この人物が一週間前、あることであなた方に相談したいことがある、と電話してきたのである。
「お電話を差し上げた野々宮天空です」
ゆっくりと椅子に座ると、野々宮は私に名刺を差し出した。そこには、「夢を還す男 野々宮天空」と書かれている。野々宮といえば、顔を仮面で隠したマジシャンで有名だ。
「で、何のご用件ですかね?野村さん」
御手洗は野々宮に紅茶を出しながら、案の定名前を間違えた。
「…私は野々宮だ。私は、君たちに相談をしにきたのだよ」
ずいぶんと低い声が響き渡った。女性の声ではないように思える。
「その内容は?」
「君たちは、長野の山奥に菊花亭という家があるのをご存知だろうか」
野々宮は一口紅茶を飲んでから呟いた。御手洗を見てみると、きょとんとしたような顔をしている。おそらく知らないのだろう。…しかし、私も知らなかった。2人の顔を見て気付いたのか、野々宮は説明を始める。
「植物学者の楠木白水氏は知っているだろう?彼が長野の山奥に立てた和風の一軒家だよ。実は、彼とは個人的な親交があってね。今度のパーティに招待されているのだが、何分私も忙しい。それに、楠木氏は最近、自分たちの業績を狙う者がいる、とも言っている」
「我々に代わりにパーティに出ろ、ということですか」
御手洗が単刀直入に言うと、野々宮はにやにやと笑った。
「良く解ってるじゃないか。そういうことだ」
なんという高圧的な態度だろうか。しかし、御手洗は「ほほう!」と大声で言って瞬間的に微笑むと、ゆっくりと椅子にもたれた。
「…金額は、その後口座に振り込む」
「解りました、協力しましょう。あなたの挑戦を受けて立ちますよ」
「そうか、ありがたい。…だが、最後に勝つのはこの私だ」
野々宮はにやりと笑った。
へえ、と私は思った。こんな態度の人間を、御手洗は普通馬鹿にしたりするに違いないと思ったからだ。しかしこれはどういうことだろう。それでは、と野々宮は立ち上がると、サングラスを取って一礼した。…綺麗な女性の顔である。
「しかし、どういう風の吹きまわしかね。あんな高圧的な者の依頼を受けるなんて」
野々宮が帰った後に、私は御手洗に向かって毒ついた。冷蔵庫からヨーグルトを取ってきた御手洗は、蓋を開けてスプーンでそれをすくうと、
「ああいう態度だと、反発じゃなしに、よし、受けてやろうじゃないか、という気分になるんだ。それに、あの依頼者は少し奇妙だと思ったんだ」
「なぜ?」
「あまりにも奇妙な依頼じゃないか?見ず知らずの者に、パーティに行ってくれなんて。しかも友人に渡せば良いのに、わざわざ僕に渡している」
「それは、業績を狙ってるっていう話があるからだろ」
「なら、それを先に言うべきだろ。その上で、パーティがあるから、と言えば良いのだ。しかし、パーティのことを先に言うのはおかしいと思わないかい?」
「そう言われてみれば…」
私が考えている最中に、御手洗はヨーグルトを口に運ぶと、
「長野行きは決まったね」
2 立てばシャクヤク
長野新幹線で長野についた後、私たちは白馬岳が見える駅まで来ていた。話によると、菊花亭は白馬岳の近くにあるという。しかしそこまでは山登りに近いものがある。この地も今は静かだが、市内では麻薬が横行しているという。大がかりな麻薬組織がいるらしい、という報道をニュースで見た。
10分ほど山道を歩くと、草花が咲き乱れる平らな土地へと出た。しかしいろいろな種類の花がある。咲いていないものや、もう散ってしまっているものもあった。しかしそろそろ春めいても良い頃だ。あちこちに大小数個の花が咲いていた。
「もしかして、御手洗さんじゃないですか」
玄関が開かれ、1人の女性が顔を出す。長い髪に大きめの真っ赤なリボンをつけ、ピンク色のドレスを着、そして汚れたスニーカーを履いていた。あまり大人とは思えない服装である。
「ええ、そうですが」御手洗が答えると、女性はこちらに近づいてきた。
「白水の孫娘、楠木桜と申します。野々宮さんから話は聞いてます、さ、どうぞ」
私たちは家に案内された。ずいぶんと古めかしい造りである。2階は部屋が1つだけあり、白水博士の研究室になっているという。私たちが案内されたのは、1階の大きなテーブルが置かれている部屋だった。下には真っ赤な絨毯がしかれ、奥の方に顎鬚を蓄えた老人が座っている。その両脇の席には、眼鏡をかけた中年の男性と赤い服を着た中年の女性が座っていた。私たちの近くには、煙草を吸っている白人の男性が座っている。
「おじい様、探偵の御手洗さんです」
桜がそう言うと、老人は杖をついてゆっくりと立ち上がる。
「わしがこの館の主、楠木白水じゃ。これ、お前たち自己紹介をしなさい」
何かが唸るような低い声だった。それにつられて、並んでいる一組の男女が言う。
「白水の長男、楠木真一です」
「真一の妻の菊枝です。遠いところをようこそ」
「君たちを連れてきたのは孫娘の桜。もう1人の孫娘、百合子は病気寝ておる。それから、そこにおるのがわしの客人、ヨーロッパで植物の研究をしているニコライ氏じゃ」
ニコライ、と言われた男が小さい会釈をした。
「では、わしについてきてくれ」
そう言うと老人は私たちの側を通り過ぎ、2階に向かう。私たちも慌ててついていった。老人は手すりにつかまって、ゆっくりと登っていく。2階につくと小さなドアが見えた。私たちはその中に入っていく。穴をつくような臭いがした。周囲には植物の種や苗が置いてあった。奥には小さな扉も見える。部屋がもうひとつあるようである。その中心には、白衣を着た青年が立っていた。30ほどに見える。
「こいつは助手の板垣」
板垣、と言われた男が会釈をする。私と御手洗も会釈をかえした。老人は扉を閉めると、周囲をきょろきょろと見ながら頷いた。どうやら聞かれては困るらしい。
「これを見てほしい」
老人は大きな冷蔵庫(種を冷凍保存しているのだろう)から一つの苗を取り出した。どうやら、上の部分は冷凍庫になっているらしい。私はそれを見て目を見張った。一輪の薔薇があったのだが、その薔薇は花びらが黒かった。深い紫かとも思えた。だが、その光景は美しくもあり異様だった。そこにあるべき色が無いように思えたからだ。黒百合というのは有名だが、黒薔薇、というのはあまり私の記憶では知らない。
「品種改良で?」そう呟いた御手洗が、その鉢を持たせてもらう。老人は首を振った。
「…板垣が少し前に、白馬岳で発見したものじゃ」
「まさか、自生していたのですか」御手洗も多少驚いたようだった。御手洗はその鉢を老人に戻す。老人はその鉢を板垣に持たせた。板垣はそれを眺めながら、
「もっと調べれば、この薔薇がもっとたくさん生えているところがあるかもしれない。そうしたら、これを学会に発表しようと思っているのです」
「日本固有の種、という可能性は?」
御手洗が呟いた。板垣は力強く頷いて、
「十分あり得ると思いますよ。この日本アルプスには、まだまだ手付かずの自然が残っている。新たな種が発見されるのも珍しくはないと思います」
私は事態がようやく飲み込めてきた。もしかしたら、この薔薇が危ない、というのだろうか。私が狐につままれたような顔をしていることに気付いたのか、板垣が鉢を下に置くと、白衣のポケットから一枚の封筒を取り出す。
「この黒薔薇を発見した1週間後に、郵便受けに入っていたものです」
広げると、紙には新聞を切り抜いた文字が貼り付けてあった。それはこう読めた。
黒薔薇を持つものには呪いが訪れる
「黒薔薇を見つけたという公表はしたんですか?」
私がその紙を見ながら呟くと、白水と板垣は首を振った。
「この家の者…先ほど見ただろう。彼らにしか話しておらん」
「つまり、犯人はこの家の中にいるということですね」
御手洗がゆっくりと呟く。私と板垣、そして白水は同時に頷いた。
「わしは今日、これを公表し、犯人を調べるつもりじゃよ」
「しかし、それは危険でしょう」
私が言うと、老人はずれていた眼鏡を掛けなおし、勝ち誇ったように笑った。
「さて、わしはここで研究を続ける。板垣、お前は御手洗さんたちを大部屋にお送りしなさい」
時計を見ると13時を過ぎていた。私たちは、板垣と一緒に階段を下りていた。
「博士は2年前に、奥さんを亡くされましてね。疑い深くなってしまって…」
ほう、と御手洗は呻いた。そして板垣の顔を見ると、
「病気でお亡くなりに?」
「いや、自殺したのです。あの研究室で首を吊って」
板垣は小声で、しかし良く通る声で言った。一気に周囲の空気が凍りつく。ふう、とため息をついた後に板垣は続けた。
「以前はあの部屋は誰でも通れるようになっていたのですが、今は私と博士しか通れないようにしています。博士も相当悩んでおられたのでしょう。博士はずっと、奥さんを省みず研究に没頭されていましたから」
大広間につくと、相変わらずの状態だった。私たちは大きなテーブルに座る。しばらくすると、御手洗は近くにいるニコライという男と英語で会話し始めた。私は途方に暮れた。すると、私にゆっくりと楠木桜が近づいてくる。そして隣に座った。
「お姉さんはどういう病気で?」
私が問うと、彼女は悲しげなまなざしで、
「…心臓の病で、ずっと寝込んだきりなの。それより、おじい様に会われたのでしょう?」
年齢は17、8だろうか、桜は私にゆっくりと微笑みかける。私は頷いた。しかし、あの脅迫状の話をしてはいけない。私はどぎまぎしながら、
「ええ。いろいろな植物の話を」
「あの黒薔薇も?」
私は一瞬黙った。そして、ええ、と頷く。御手洗がこちらの言葉に反応して、
「あの黒薔薇、まだ名前はついてないんでしょう?」
「そうだ」流暢な日本語でニコライが言った。「おそらく、板垣君の名前がつくか、板が貴君と先生の名前を合わせたような感じになるだろうね」
「あなたはあの薔薇を調べに?」
私が言うと、ニコライは少し動揺した。
「ま、まあそうだ。私も植物学者の端くれだからね」
「あんな黒い薔薇があるなんて、驚きましたわ」
奥の方で菊枝が言う。うん、といって真一が頷いた。
「探偵さんなら事件を解決してくれるかもしれないぞ」
「事件とは何です?」御手洗が真一の方を見て言った。真一は首を振って、
「いや、桜はイギリスに1年留学すると言って、1ヶ月前にこの家を出たのですが、今になってひょっこり帰ってきましてね。驚きましたよ。その心変わりが事件だと思うのです」
「ああ、そういうことですか」
私は微笑んで言った。桜は私の隣でむっとした表情をしてみせる。
「別にいいじゃない、懐かしくなったんだからさ。もう少ししたら、また出て行くわよ」
その時だった。階段を下りてくる音がする。私たちは黙った。大広間を開けて、老人が姿を見せた。ゆっくりと歩いてくると、奥の椅子に座る。
「…喉が渇いたな。誰か、コーヒーを淹れてくれんか」
白水がそう言うと、菊枝が立ち上がって部屋を出た。しばらくして、菊枝はコーヒーカップとコーヒーが入っているケースを持ってくる。そして、カップにコーヒーを注いだ。
「実は、お前たちに聞きたいことがある」
そう言って老人はあの紙を広げて見せた。視線がその紙に集中する。
「あの薔薇を見つけてから1週間後、この紙が郵便受けに入っていた」
「きょ、脅迫状じゃないですか」
真一が気色ばむ。ああそうだ、と白水は頷き、
「黒薔薇のことを話したのはお前たちだけ。そして今日、私が2階のもう一つの部屋で研究をしていたら、黒薔薇が無くなっていた」
そんな馬鹿な、と私は心の中で叫んだ。誰もが沈黙している。御手洗が何か言いたそうな顔をしていたが、私は首を振った。御手洗は急に落ち着き払い、押し黙った。
「お前たちの中に犯人がいるはずじゃ。今なら許してやる、名乗り出なさい」
「博士、僕たちを疑うのですか」
板垣が立ち上がって言う。白水は静かな瞳で周囲を見渡して、
「仕方あるまい。薔薇のことを話したのはお前たちしかいないのだからな」
「無茶苦茶じゃないですか、おじい様」桜が頬杖をついた。「なぜ私たちが黒薔薇を盗む必要があるのです?私たち、家族じゃないですか。おじい様や板垣さんの名誉はこの家の名誉、なぜそれを私たちが阻むのですか」
「黙れ、疑わなければならん。さあ、もう一度言う、盗んだのは誰じゃ」
場が静まり返った。数秒の沈黙の後に、白水は静かにコーヒーを一口飲む。桜が驚いたような表情を見せた。
「むう…馬鹿に苦いな」
そう言って白水は咳き込んだ。私は気管に入ったのかと思ったが、どうやら様子が違う。白水は立ち上がると、肺を押さえながら何度も咳き込んだ。御手洗が立ち上がり、白水に近づく。それにあわせ、真一や菊枝も驚いて立ち上がり、白水の肩をさすった。しかし咳はますます激しくなり、顔が赤色に変わっていく。そして、白水はそのまま突っ伏した。桜の悲鳴が聞こえる中で、御手洗が真一と菊枝を抑えて白水の手を取った。なぜか、白水氏の左手は濡れていた。
「…警察を呼んでくれ。もう死んでいる」
3 座れば牡丹
警察がすぐに訪れた。現れた捜査主任である大島という男はずいぶんと尊大な男だったが、私たちが自己紹介をし始めると「み、御手洗さんと石岡さんですか」と言い放ち、その後はずいぶん謙虚になった。どういう変化があったのかは知らない。大島は、我々全員を大広間に集めさせた。
「家の者はすべて、この大広間にいたことは確かなのですか」
大島は詰まりながら早口で言った。いいえ、と真一が首を振って、
「私の長女、楠木百合子が寝室で寝ています」
「それはまた何故?」
「…心臓を患っていまして、ほぼ寝たきりの状態なのです」
「後で診断書をお願いします」大島はメモを取ってから、今度は我々を見た。
「探偵、ということですが、なぜこちらにいらっしゃったのですか」
常套句的な質問であるが、「たまたま来た」ではすまされない。もちろん、私はここに来た理由を手短に大島に伝えると、ああ、なるほど、と大島は大仰に頷いた。
「ところで、白水氏の死因は?」今度はニコライが呟く。大島は持っていたカバンから大きなファイルを取り出した。それを開いて、
「死因は、ストリキニーネによる中毒死です」
そう手短に言った。確か、植物毒のはずである。
「まあ、植物研究家ということですから、どこかに隠し持っていたのかもしれませんね」
「刑事さん、それは白水氏が自殺した、と断定されるのですかね?」
御手洗がわざとらしく、手を挙げて言った。一瞬大島はむっとしたが、すぐに元の表情に戻る。
「だって、コーヒーを淹れてくれ、と言ったのは白水氏だろう?」
私が御手洗を攻めるように言うと、大島がゆっくりと首を振った。
「しかし、コーヒーを淹れた方が毒をいれたという可能性も否定できません」
菊枝の顔が青ざめていった。
「そ、そんな。私が毒を淹れたというのですか?」
「それはあり得ません」
板垣が断定的に言う。ほほう、と大島は板垣の方を向いた。
「なぜなら、博士は植物性の毒物を2階に置いていたからです。研究のために」
「2階に菊枝さんが行ったという可能性は?」
良く「可能性」という言葉を多用する大島刑事である。
「それはないです。なぜなら、2階の部屋の鍵は、僕と先生しか持っていないからです」
「2階には他にも毒物が?」
御手洗が板垣の方を向いて言う。ええ、と板垣は言ってから、
「たぶん研究のためだと思いますが…。刑事さん、2階に行ってみますか」
私たちは真一と菊枝、それに桜とニコライを残して2階へと向かった。板垣が鍵を開けると、先ほどと同じような光景が広がる。しかし、もうあの黒い薔薇は無かった。板垣は近くの戸棚を開けると、そこにあった鍵を使い、奥の方にある扉を開ける。2畳ほどの狭い部屋だった。天井も狭く、私が腰を屈めなくともやっと入れるような狭さである。御手洗は少し腰を屈めて入らなければならなかった。上の段のような部分に、瓶があるのが見える。その瓶には髑髏マークが書いてあった。大島はその瓶を取って、
「これは調べましょう」と呟いた。
「大垣さん、例の盗難事件は」
御手洗があいも変わらず、名前を間違えてそう言う。いつもこの男はそうだ(しかし、生年月日を忘れない、というのは凄いと思うが…)。大島は頭を掻いて、
「大島です。はい、あの薔薇の盗難事件ですね」そう言いながら大島は懐からもう1枚、手帳を取り出す。まるで彼の懐は四次元空間のようだ。
「この部屋の指紋を調べなければなりませんね」
大島はため息をついて言った。
私や御手洗の指紋も2階にはもちろんついていたが、ほとんどは白水氏と板垣の指紋だった。だが、ただ1つだけ、指紋をふき取ったような跡が見受けられたという。それは、あの薔薇が置かれていた冷蔵庫であった。やはり、賊が侵入して黒薔薇を盗んだのだろうか。しかし2階の研究室はほぼ完全な密室状態であり、入る扉の鍵は白水氏と板垣しか持っていない。しかし、彼ら2人が黒薔薇を盗む理由は無いに等しいし、楠木家の人々が黒薔薇を盗む、という可能性も無いに等しいのではないだろうか。
白水氏を殺した犯人は、菊枝に違いないと私は思っていた。なぜなら、コーヒーカップも、そしてコーヒーも持ってきたのは菊枝だからである。これ以上有力な状況証拠はないだろう。台所に隠し持っていたストリキニーネを、台所で投入し、持って行ったのだ。しかし、その私の推理を大島刑事の調査は一撃で覆した。2階で見つかった瓶のストリキニーネと、白水氏の胃で見つかったストリキニーネはまったく同じものだというのである。こうなると、2階の密室の謎を解明しなくてはならない。御手洗はトイレに行く、と言って大広間を出ていたが、少しして戻ってきた。
「上の冷凍庫には何が入っていたのです?」
御手洗が大島に言うと、大島は頭を掻いて、
「いえ、水が入ったケースしかありませんでしたよ。もう氷になりかけていましたが」
「え?水ですか?」
「ほら、ケースの中に入っている。白水氏は、一旦氷を出して水を入れたんでしょう」
「しかし、なぜそんな無駄なことを…」
「皆目検討がつきません」
氷を出して、またそのケースに水を入れる。当たり前の行為だと思われるだろう。だが、その出された氷はこの家のどこからも見つかっていない。冷蔵庫からも見つかっていないのである。あのケースには、8つの隙間があったという。ならば、その8つの氷を何かに使う必要があったのだろうか。…そういえば、桜はなぜあの時、驚いたような表情を見せたのだろう。私は椅子でうつむいている桜に近づいた。
「なんで、白水氏が死んだ時、あんな驚いた顔を?そりゃあ、目の前で人が死ぬっていうのは凄い驚きかもしれないけど…」
「違うの。おじい様は猫舌だからよ」
「なんだって?」
「だから、コーヒーなんてあんなにすぐに飲めない、と思ったんだけど…」
彼女は腕を組みながら考えていたが、目を閉じてしまった。
「でもね」彼女はゆっくりと立ち上がり、にっこりと笑ってみせる。「犯人がどんなに私たちを騙そうと、最後に勝つのは私たちなんだから」
「ああ、そうだね」私は頷いた。
「ああ、うん、そうか!」
突然御手洗は立ち上がると、「よっしゃあ」と連呼しながらガッツポーズを取り始めた。ついに躁鬱が再発したのか、と私は彼を助けずにぼぉっと眺めていた。御手洗はゆっくりと大広間を歩きながら、突然阿波踊りを…いや、何もせず、大島刑事を見つめている。
「大垣刑事、皆さんを大広間に。殺人の謎はもう解けました。なあに、取るに足らない事件でしたよ。はっはっは。それより、薔薇の行方に興味があるくらいだ」
…意外とまともである。
4 推理する紫陽花
読者への弱気な挑戦状(思考開始、改題)
白水氏の死についてのトリック、そして犯人はこれから暴かれる。全てのヒントは…いや、提示されているのかいないのか、私にも解らない。人の読み方は十人十色、千差万別という言葉を出して、お茶を濁しておく。だが、私はあの言葉を言わなければならない。それは「手品の幕は降りた」でも、「飛鳥五郎を殺した男は誰だ」でもない。
「私は読者に抽選する」
…。
「私は読者に挑戦する」
美しいパズルは美しい。 2003 3/7 近衛
言ってしまうが、いかにも古典的な雰囲気である。「古典的な」と書いて、「ああ〜」と解る人がどのぐらいいるのかは疑問だ。まさか、御手洗はあの伝説的な言葉を吐くと言うのだろうか。椅子には、前と同じ配置で皆が座っていた。御手洗はここで、白水氏が死んだ理由を挙げようというのだ。御手洗は立ち上がると、
「さて皆さん」
言った。あの伝説的な名台詞。なんとなく私は感動を覚える。
「今回の事件は、それほど難しくありません。事件は2つありました。まずは、白水氏が死んだ事件。もう1つは、薔薇が盗まれた事件。まず、白水氏が死んだ事件から考えてみましょう…犯人は、白水氏です」
周囲がどよめいているのが手に取るように解る。しかし、それはどういうことだ?
「おい、それはどういうことなんだ」
私はたまらず御手洗に言った。御手洗は口から息を吐くと、
「まあそうそう慌てないで、石岡君。…白水氏は、氷の中にストリキニーネを入れ、それを持っていた」
「口に含んでいたのなら無理だぞ。話せないじゃないか」
「だから、脅迫状だ。白水氏は脅迫状に全員の視線が注がれるのを狙って、わざと出した。ミスディレクションという奴だ。その時、手に持っていた氷をコーヒーに落としたんだ」
だから、白水氏の手が濡れていたのだろうか。
「じゃあ、脅迫状というのは…」
「まったくの嘘、白水氏が作ったものさ」
しかし、私にはまだまだ解らない点があった。
「ど、動機は?自殺する動機は…」
「2つある。1つは、奥さんが自殺したこと」
「もう1つは…?」
「…黒薔薇を盗まれたことだ。それも、自分の"孫娘"にね。前々から白水氏はこのトリックを考えてはいたが、踏ん切りがつかなかった。それが、孫娘によって自殺せざるをえなくなった、と言ってもいい」
全員の視線が桜に集中する。桜は一瞬、きょとんとした顔つきをしたが、その顔は青白くなっていった。桜は立ち上がると、
「わ、私が犯人っていうわけ?」
「違います…もう1人いるでしょう?」
「馬鹿な!それは無理だ」
ニコライが立ち上がって言った。まさか、百合子が黒薔薇を盗んだのか。しかし彼女は寝室で寝たきりのはずである。どうやって、盗もうというのか。
「百聞は一見にしかず、見に行こうじゃありませんか」
ぞろぞろと皆は大広間から歩いていく。歩きがてら、私は御手洗に聞いた。
「君は寝室の場所が解っていたのか?」
「ついさっき、トイレに行っただろう。あれは嘘だ。実は、百合子さんに話を聞いていたのだよ。彼女は事実を自供したんだ」
「しかし何故…どんな理由があるんだ」
私たちは寝室の前まで来た。厳粛な顔をして、真一が戸を開ける。パジャマを着た女性が立っていた。だがその顔は青く、とても生きているようには見られない。この人物が百合子なのだろうか?御手洗が呟く。
「彼女は麻薬に手を染め、心臓病と偽ってここで麻薬を続けていたのです」
「ゆ、百合子」真一がその場に崩れ落ちる。「なんてことを…」
バランスを崩し、百合子が倒れた。それを、真一と菊枝が受け止める。
「じゃあ、姉さんは麻薬を買うために?」
桜の問いかけを、御手洗は首を振って答えた。
「いえ…。彼女はむしろ、加害者でもあり被害者でもある、と言って良いでしょう」
「じらさないで早く教えてくれよ」
「まったくもう、せっかちだなあ石岡君。まあいいよ、真相を話そう。彼女は麻薬に手をつけたため、何者かに脅迫されていた。そして、あの薔薇を盗むよう指示されたんだ」
「だ、誰なんだそれは」
御手洗の眼差しは、まっすぐニコライを見詰めた。
「あ、あの人です。あの人が…」百合子が息も絶え絶えに、ニコライを指差す。ニコライが後ろを向いて走り出した。だが、大島がかけつけて体当たりをする。ニコライは崩れ落ちた。どさどさ、という感じで持っていたカバンや、ポケットのものが飛び出す。パスポートが飛んだのを大島は見逃さず、それを掠め取った。
「これは…偽造されたものだ」大島は呟いた。「とりあえず、不法入国の件で署にご同行ねがおうか。もっとも、それ以上の罪が出てくると思うがね」
手錠をかけられたニコライは、がっくりと肩を下ろした。
5 真相を知る枝垂れ桜
事件を解決してから、1週間ほど経った頃だ。私の口座に、なんと100万円も振り込まれていた。おそらく野々宮からのものだろう。私たちはまた、お互いに紅茶を注ぎあって部屋で飲み始める。
「2階の部屋は密室状態だった。どうやって百合子さんは、あの不自由な身体で取りに行ったのかね」
御手洗はゆっくりと首を振った。
「おそらく、白水氏だと思う」
「し、しかし、それでは薔薇も白水氏が盗みの手助けをしたことになるぞ」
「…白水氏は百合子さんの麻薬のことを知っていた。脅迫している人物もね。自分の可愛い孫娘を、麻薬という恐るべき魔物の虜にさせた、これはあくどい罪だよ。しかし、状況証拠がなければ警察は動いてくれない。そこで、白水氏は黒薔薇をエサに使ったのだ」
「…自殺することなかったろうに」
「多少の衝撃で、人間は動揺するものさ。…奥さんが自殺し、孫娘もこのような悲劇に見舞われていた。並大抵の神経じゃやっていけないのも確かさ」
しかし、事件はこれで終わりではなかった。まず、大島刑事から電話がかかってきたのだ。それによると、黒薔薇の鉢が百合子の部屋から見つからないという。ニコライに聞いたが知らぬ存ぜぬの一辺倒、百合子に聞いたところ「桜に渡した」というのだ。当の桜に聞こうとしたら、もう菊花亭にはいなかった、というのである。いったい何がどうなっているのか見当もつかなかった。この話を御手洗に言おうとしたら、またしても電話が鳴った。今度は楠木真一氏である。話しを聞いて私は耳を疑った。なんと、イギリスにいる楠木桜から電話がかかってきた、というのだ。自分はずっとイギリスにいるが、みんな元気か、という内容だったという。
「そんな馬鹿なことがあるのかな」
御手洗に話してから、私はそう呟いた。御手洗はしばらく黙っていたが、突然紅茶を一気に飲み干すと、
「僕はなんて馬鹿なんだ!」
と大声で言い、頭を自分で殴り始めた。私が御手洗を押さえてやめさせると、御手洗は私を睨みつけ、大声で言った。
「…もっと早くから気付くべきだったよ!桜氏は別人だった」
「ば、馬鹿な」私は頭が真っ白になった。「だって、真一氏も菊枝さんも、みんな桜だと思っていたんじゃないのか!?」
「こういうことがあり得るんだ」御手洗はようやく落ち着いたのか、床に座り込んでしまった。「こんな一言で、片付けたくはないがね」
「…じゃあ、桜に化けていた奴も、麻薬組織の…」
「いや、違うね」
御手洗は即答する。「もしそうなら、ニコライが捕まりそうになった時、助けるか口を封じるか、何かしら手段を講じるだろう」
「じゃあ、一体…」
私は事件を最初から考えてみた。そう、確か発端は、あの野々宮天空という人物だ。
「だが、最後に勝つのはこの私だ」
…まてよ。確か、あの女性も…
「最後に勝つのは私たちなんだから」
まさか…。わざと彼女はああ言ったのだ。後々、我々が気付くように。
「野々宮天空だ!」私と御手洗が叫んだのはほぼ同時だった。
「薔薇はやはり赤が一番素晴らしい」
その人物は鉢に植えてある薔薇を眺めながら呟く。手にはワイングラスがあった。隣には、そっくりの顔つきをした女性がいる。ワイングラスを持った人物は、鉢を女性に渡すとゆっくりと頭の毛を取り始めた。べりべり、という音がする。痛そうにしながら、髪をはがす。短い髪がのぞいた。
「私ね、この薔薇見たことがないの」
桜は、そう言いながら薔薇を眺める。
「あなたは、男なの、女なの?」
桜はその人物を眺めながら言った。
「野々宮天空という名前も、本当なの、嘘なの」
「それは言いっこなしでしょ」天空の声は、まったく桜と同じだった。「そういうことで、私はわざわざあなたに成りすまして、この薔薇を盗んできたんだから…」
「とにかく」桜は近くにある大きなケースを開ける。万札が詰まっていた。野々宮はそれを丹念に調べると、そのケースを閉めた。
「謝礼、多すぎた?」
「別に。彼らに渡す物を差し引いても、まだお釣りが来る」
彼は立ち上がり、ケースを持つ。置いていたサングラスをかけ、胸のポケットから煙草を取り出した。そして、ゆっくりとホテルのドアまで行く。
「待って。あなた、恋人はいるの?男、女?」
桜はそう呟いた。彼はその方向を見ずに、
「…さあ、どっちだろうね?今は男が好きだよ」
そう言って歩いていった。桜はもう一度、鉢に植えてある黒い薔薇を眺めた。その薔薇は艶かしい光沢を放ち、言いようの無い美しさに包まれていた。
「しばらく眺めると飽きるね」
港を歩きながら、彼は呟く。そして、懐から黒い薔薇を取り出した。
「…やっぱり、薔薇は赤がいい」
そう言って彼は、海に黒い薔薇を捨てた。