美食の果て
The author 龍一


「君はこんなところに来ても、本を手放さないのかい。」
 僕は言った。御手洗は中庭に面した縁側の板張りに置いた藤製の椅子にだらしなく座り、テーブルの上に足を投げ出して広辞苑みたいなぶ厚い本を読んでいる。真昼だというのに今はカーテンがしっかり閉められ、中庭は見えない。僕は浴衣姿で畳の上の座布団に正座し熱いお茶をすすっていた。
「君も温泉に入ってきたら?」
「今朝、入ってきた。」
「僕は今日二度目だよ。」
「僕はそんなに肩こりじゃないさ。」
 確かに、ここの温泉は肩こりに良く効いた。硫黄の臭いが微かにする白濁したお湯は日頃の仕事の疲れを癒し、僕の俗世間の垢をすっかり洗い流してくれる、はずだった。
 旅行会杜が出版する雑誌にコラムを連載し温泉旅行のただ券を手に入れた僕は、文句を言う御手洗を半ば引きずって新幹線に乗せ、さらに電車とバスと送迎のワゴン車に長時間揺られてこの旅館にたどり着いた。ところが僕たちが到着した途端大雪が降り始め、全く止む気配が見られず今シーズン初めての記録的な降雪量となっていた。山奥のひなびた温泉旅館はすっかり雪に覆われて完全に閉じ込められ、二泊の予定がすでに四泊も泊まっている。雪はすぐに吹雪となり、降り続いた。そして今朝方、やっと止んだのである。窓から見上げる空はどんよりと重い雲が蓋をしていて、いつまた降り出してもおかしくなさそうな気配だ。
 廊下がぎしぎしと音を立てるような古い旅館は今どき流行らないのか、それとも季節的なものなのか、僕たちのほかには泊り客は見えない。もっともあまり大きな旅館ではないし、仲居さんも一人しか見当たらない。あとは妙齢の色白で美人な女将さんとその旦那さんらしい番頭さん、男性の従業員二・三人がいるようだ。旅館の中に寝泊りしているのか、帰る姿を見ることはない。
 テレビを点けると、ノイズが画面中を走り回りながらも何とか見ることが出来た。民放は二チャンネルしかない。昼前のニュースをやっていて、アナウンサーが全国的な大雪で交通網が大混乱していると伝えている。きっと横浜もすごいことになっていることだろう。その後も不運な人が事故にあったとか、失踪したとかという話題で目に留まるものは無く、僕は舌打ちしてテレビを消した。
 部屋を出て、なんとなく玄関のほうに行ってみた。玄関の脇に売店と小さな応接セットが置いてあり、頼めば紅茶やコーヒーを出してくれる。ソファの近くの棚には本当は新聞が置いてあるのだろうが、雪のせいで新聞も届かないらしい。今は雑誌が数冊置いてあるばかりとなっていた。キオスクで買った文庫本はとうに読み終わり、テレビも見るものがなく、温泉にもすっかり飽きてしまった僕は、手持ち無沙汰でソファに身を沈めた。棚の雑誌もすでに読みえたものばかりで、後は観光パンフレットが残っているに過ぎない。僕はあまりの退屈に苛立ちさえ覚えた。
「お客さん、暇なんかい?」
 玄関脇の事務所のカウンターから、恰幅のいい仲居さんが声をかけてきた。
「生憎だったねえ、大雪に当たっちゃって。今年は雪が早いんだよ。ここは山奥で雪が深いだろ、毎年冬には営業してないんだけどね。今年も、あんたたちが最後のお客さんだったんだよ。あんたたちが帰ったらここは閉めて、下の村で春までおとなしくしてるのさあ。 夏にはね、ここも結構お客さんが来るんだよ。泊りじゃなくて、お風呂だけでも入れるからね。この旅館の前の道をもっと行ったとこに貸し別荘があってさ、そこの人が来たりするし。まあ冬だからもうすぐ閉鎖されるけど。夏でも涼しいし、いいとこだよう。今朝やっと雪が晴れたから、皆で外の雪かきしてるよ。下の道まで通れるようになれば、お客さんも帰れるからねえ。昔は手で雪かきしてたけど今は機械でやるから楽になったよ。ああ、お客さん、暇なんだったね。ほれ、何か本でも貸してやるよ。この間来たお客さんの忘れ物なんだけどね。はい。」
 カウンターの上に置かれた本を取ろうとすると、僕の代わりに背後から手が伸びた。
「いやあ、これはすいません。お借りしますよ。」
 いつの間にか御手洗が立っていた。途端に、あき竹城似の仲居さんの頬がぽっと紅く染まる。御手洗は仲居さんのお気に入りらしい。いつも夕食の魚が僕より大きいのだ。
「いやだあ、すいませんなんてえ。あとで饅頭持っていってやるから、待っててなあ。」
 仲居さんは頬を両手で押さえ、くねくねしながら、カウンターの奥へ入っていった。
「・・・饅頭をもらえるらしい。サービスがいいな。」
「君、本を読んでいたんじゃなかったのかい?」
「今読み終わったところだよ。君を探しに来たんだ。女将さんが昼食を運んできたぜ。」
「ああ、そうか。」
 そういえばさっきテレビでやっていたのは昼前のニュースだった。御手洗は僕に、借りた本を持たせてさっさと廊下を行ってしまう。僕は慌ててその後を追いかけた。
 昼食のなべ焼きうどんを食べ終わり、僕は借りた本を取り出した。書店でかけてくれる紙のカバーが付けっぱなしになっていて、僕はそれを外してみる。『グルメ人生・森岡重信』。表紙では小太りの男性がフランス料理らしき皿を前にし、笑顔をうかべている。著者自身の写真のようだ。有名なグルメ評論家で、雑誌に色々な店の評価を書いているらしい。非常に辛辣な内容で、店中の悪いところをあら捜ししてけなし、量は多いとか少ないとか、味は濃いめとか薄めとか、店員の応対はどうかとか、店ごとに事細かに記してあるのだそうだ。味が気に入らないと一口だけで店を出てしまうという話を聞いたことがある。この本は、雑誌に連載したものに取材時の裏話を加えた物で、確か数年前にベストセラーとなった記憶がある。
 正直、推理小説であることを期待した僕はがっかりしていた。あまりグルメとは縁がない。僕の隣でこの本を覗き込んでいる奴は特にそうで、何を食べても同じ味に感じるようだ。僕は本をぱたんと閉じ、御手洗に渡した。
「君が読めよ。ちっとは食べ物の味が分かるようになるかもね。」
「興味ないんだがなあ。なになに。『まえがきにかえて。私がグルメだと言われるようになって久しい。それは雑誌編集者をしていた頃からよく作家の先生においしいと評判の店に連れて行って貰ったことで舌が肥え、更にうまい物を自分から探求するようになったためである。』君は編集者をうまい店に連れて行ったことなんてあるのかい?」
「ないなあ。逆に奢ってもらうことはあるけどね。」
「ふうん。続き。『しかしもうひとつ、私が味覚を探求することになったのには理由がある。それは、幼い頃の記億である。私が子供の頃は戦争のため食糧事情が悪く、常に腹をすかせていた。私の家族は両親と私、それに双子の妹。母は双子の妹たちを出産してから体調がすぐれず、働くことがほとんど出来なかった。父は中国にいたことがあり、その時の怪我がもとで片足が悪く、足を引きずって歩いていた。そのために徴兵を免れたものの周囲からの非国民という言葉の圧力は私たちに重くのしかかった。やがて終戦を迎えたが、貧乏に加えて周りから助けを受けることも出来ず、私が十歳の時、以前から臥せっていた母が死んだ。葬式を出すことも出来ない状態の中、父は私たちをこれ以上育てることが出来ないと思ったのだろう。遠くに住む親戚に私たちを預けることに決めた。父は最後に何か子供たちにうまいものを食べさせてやろうと思ったのか、どこからか肉の塊を調達して来た。切り取られたばかりのようで、古新聞に包まれたその肉は血が滴るような新鮮なものだった。父はそれで雑炊を作ってくれた。雑炊と言っても、米はほとんど入っていない、汁と肉ばかりのものだ。しかし、そのうまかったこと。私と妹たちは何度もおかわりして平らげた。父は私たちに少しでも多く食べさせようと、一口も食べなかった。私は未だにそのうまさに勝る肉を食べたことがない。父はただ、けものの肉としか言わなかったため、何の肉なのかは分からず仕舞いだった。その後、私たちは親戚に預けられたが、父はそれから程なく病死してしまった。私たちはどうにか大人になり、それぞれ結婚し、幸せな家庭を持った。妹たちは双子のためか、時期は違うが同じ病気に侵され、すでに亡くなり、あの肉の味を覚えているのは私だけになってしまった。私はあの肉の味を未だ忘れない。とろけるような舌触り。噛み締めると滴る肉汁。私がグルメを続けているのは再びあの味に出会うためと言っても過言ではない。それはグルメの探求であり、いつ終わるとも知れない旅なのである。』ああ、つまらん。君、お茶を淹れてくれたまえ!」
「なんだい、勝手に読み始めたくせに。」
 文句を言い言い、僕は急須に新しいお茶っ葉を入れた。
「お客さあん。入ってもいいかね?」
 廊下に出る襖の陰から声がした。仲居さんの声だ。僕は立ち上がり、襖を開ける。菓子盆に山と温泉饅頭を積み上げた彼女がにこにこ笑って立っていた。

「はい、お茶ですよう。」
 仲居さんはお茶を淹れると、茶托に湯飲みを載せて御手洗のほうにしずしずとちゃぶ台の上を滑らせた。僕には茶托なしだ。
「ありがとうございます。いやあ、おいしい饅頭ですね!」
「そうだべえ。評判いいんだよう。」
 御手洗に話しかけられ、頬を染めてにこにこしている仲居さんはなかなか立とうとしない。余程御手洗と話をしたいのだろう。僕は二人きりにして御手洗を困らせてやろうと、今日三度目の風呂に行くことにした。旅館の名前の入ったタオルを肩に掛けると、立ち上がる。御手洗が'恨めしそうに僕を見上げた。
「そういえば、お客さん。さっき、外で凍死体が見つかったんだよう。」
「何だって!」
 急に声の大きくなった御手洗と僕をかわるがわる見ながら、仲居さんは話し始める。
「いやあ、あのねえ。今朝やっと雪が晴れて、玄関から下の道まで雪かきしたんだわあ。そいでねえ、番頭さんがポチを散歩に連れてったんだねえ。何日か吹雪いて、散歩に行けなかったからねえ。下の道まで行って、貸し別荘のほうに散歩に行ったら、ポチが吠え出したんだって。ポチは秋田犬のコンクールでも賞を貰った事のある犬で、そんなに吠える犬じゃないんだわあ。おかしいなあと思って、番頭さん、ポチが吠えてるほうに行ってみたら、雪に埋まった赤いヤッケが見えたんだって。急いで掘り出したら、死体だったって。 番頭さん腰抜かして、今さっきやっと戻って来たとこなのさあ。」
仲居さんは声をひそめながら、しかしどこか楽しそうにしている。やはり、雪のせいで退屈していたのだろう。
「死んでいたのは、地元の人だったのですか?」
 僕が聞く。
「いやあ、それがねえ。前に、ここに泊まったことがある人みたいなんだよね。番頭さん、名前は思い出せないみたいだけど、顔は覚えてるって。そいでね、今からみんなで貸し別荘のほう見て来ようかちゅうことになったんだよ。」
「貸し別荘に?だって、今の時期はもう誰も使っていないんでしょう?」
「うん、そうだけど、ここより奥だともうあそこしかないからねえ。大雪にあって、避難してんのかもしれないし。助けを呼びに来て、行き倒れになったんかもねえ。」
「分かりました、お手伝いしましょう!」
 黙って聞いていた御手洗が急に立ち上がった。仲居さんは吃驚した顔で御手洗を見ていたが、やがてにやりと笑った。
「お客さんたち、よっぽど暇だったんだろ。いいよ、頼んでみるから。」
 仲居さんが部屋を出て行くと、僕たちは旅行かばんからありったけのセーターを出して重ね着した。靴下も二枚重ねだ。上着をはおると、後は長靴でも借りればいいだろう。しかし、甘かったらしい。仲居さんがやって来て、スキーウェアーを置いていく。
「あんたたち、雪をバカにしちゃいかんよお。」
そう言って、笑い飛ばされた。スキーウェアーは男性従業員のものなのか、少し丈が短かった。玄関脇の事務所に行くと、従業員二人と番頭さんが集まってなにやら話し合っていた。
「どうかしたのですか?」
 御手洗が声をかけた。
「ああ、お客さん。いや、今ね。下の村の駐在さんに電話したんだけれども、村でもこの雪で交通事故が二つあったらしくて、すぐには来れないんだそうですよ。それで、駐在さんなしで行ってもいいもんだかねえ。」
「ああ、それはすぐ行ったほうがいいですよ。だって、貸し別荘にはまだ生きている人がいるかも知れないでしょう。早いほうがいい。」
「そりゃそうだ。じゃあ、行くべえ!」
 御手洗の一声で、決定された。御手洗はただ早く行きたいだけだったような気もするのだが、それは言わないでおこう。僕たちは玄関に用意された靴をはいた。長靴ではなくて、膝まで来るナイロン製のブーツだった。履き口に紐が付いていて、縛ると雪が入らない。中には厚いフェルトが入っていてとても暖かい。よく見ると、カナダ製と書いてある。どこにでも凝り性の人間はいるものだ。外に出ると、息がもうもうと白い煙となった。久しぶりの外だったが、僕はすぐに中に戻りたくなった。露出した頬に冷気が突き刺さる。それを察したのか、仲居さんが走ってきて後ろから御手洗に飛び付き、毛糸の帽子を深くかぶせた。僕にも手袋と帽子を手渡してくれた。
 下の道までは、除雪はしてあるものの道幅は一メートル位しかなく、車は当然通れない。歩いていくしかないが、これが結構大変だった。下り坂がずっと長く続き、滑るのではないかとへっぴり腰になりこわごわ歩く姿を、後ろにいた御手洗に笑われた。ようやく下の道に着くと、そこで少し待った。やがて白いワゴン車が到着すると、それに載る。どうやら電話で村から来て貰ったらしい。雪かきの道具がたくさん載せられていた。
 雪道でゆっくり車は進んだ。十分位走ると番頭さんが大声を出した。
「ああ、この辺だ。ポチが吠えたのは。」
 車を止めて、全員降りた。赤いヤッケはどこにある?
 番頭さんがきょろきょろしながらも見当が付いたのか、ずんずん進んでいくのが見えた。僕はその後に続く。確かにポチのものなのか犬の足跡と、今朝の番頭さんの足跡が穴として雪に残っている。その後を追いかける。周囲は雪。朝の日差しに表面がほんの少しだけ溶けて出来た氷水に全ての光が乱反射し、ひどく眩しい。僕はつい目を細めた。
 窪地に、それは突然はっきりと現れた。
 赤いヤッケの男。
 うつぶせに倒れている。
 全員で、遺体を取り囲む。
「番頭さん、見たことあるんでしたね?旅館のお客さんだったんでしょう?」
 御手洗が言った。
「あ、ああ。さっき、宿帳を見てきたが、東京の佐々木さんという人だった。しかしまあ、偽名かもしれないが。一ヶ月くらい前、男二人で来たんだった。この人は小柄だけど、もう一人は体が大きくて、柔道の選手みたいなかんじだったな。」
 番頭さんは少し迷ったようだったが、従業員に遺体を車で旅館の前の道まで運ぶよう指示する。
 そして僕たちは三人で貸し別荘に向かって歩き出した。
 よく見ると、凍死体が発見された場所から、深い溝が伸びている。無論、腰まである雪を漕いできた跡だ。それを辿ると、やはり貸し別荘に続いているようだと番頭さんは言った。しかし歩いた跡は真っ直ぐではないようで、吹雪の中を歩いて方向感覚を失ったのか、かなり蛇行している。先頭で番頭さんが雪かきしながら踏みつけて小道を作ってくれているとはいえ、遅々として歩は進まない。死体のつけた足跡の上を、僕たちはかわるがわる雪かきしながら少しずつ進んで行った。
 やがて林のかげからログハウス風の建物が見えたとき、僕たちは歓声を上げた。
 貸し別荘は六棟あったが、そのうちの一つに、足跡は向かっていた。
 窓はカーテンが閉まったままだ。入り口の前に数段の階段があり、リズミカルに駆け上がった御手洗が鍵の壊されたドアを開けた。
 誰もいない部屋の中はエアコンがついたままなのか暖かかった。しかし室内は暗く、御手洗は壁のスイッチを触り、電気を点けた。入り口に靴を脱ぐスペースがなく、御手洗がブーツのまま室内に上がる。僕も少し躊躇したが結局そのまま入った。見回すと右手にはキッチン。中央には木のテーブルと椅子。左手にはバス・トイレ。そして階段。二階は屋根裏部屋になっているのだろうか、外から見たときは大きな一階建てのように見えた。僕はうろうろ歩き回る。
 キッチンは使った跡があった。ガスコンロ上のフライパンには油が固まって白くこびりついている。隣には塩と胡椒が置きっぱなし。シンクの中には肉を切ったらしい文化包丁。軽く洗ってあるようで水滴が付いているが、やはり刃の部分には油脂が膜を張っていた。僕はあちこちの棚を開けてみる。観光時期が過ぎているせいか、調理器具などの備品や少しの調味料以外何も入ってはいなかった。ついでに冷蔵庫やゴミ箱も覗いてみるが、やはり空っぽだった。
 ふいに番頭さんが、二階から尖った大声で御手洗を呼んだ。バスを覗き込んでいた御手洗は無言で階段を駆け上る。僕も後を続いたが、木の階段は磨かれていてつるつるすべり、おまけに僕はセーターを二枚着た上にスキーウェアーなんか着ていて、すばやく動くことが出来ない。転びそうになりながら、手すりにつかまってやっと屋根裏部屋にたどり着いた。
 ドアの内側に、番頭さんと御手洗が立っていた。二人が邪魔で中が見えない。何があったんだ?
「御手洗、どうかしたのか?」
御手洗は振り返って僕を一瞥すると、黙って横に動いた。
 そこには、男がいた。
 痩せた体が仰向けに倒れている。
 スーツを着た腹部からはおびただしい量の血液が流れ出し、床を赤黒く染めている。
 ベッドの足に左肘をロープで括り付けられているため、少しだけ腕が持ち上がっている。
 ちょっと横を向いた顔。
 目は閉じているが目尻には涙の流れたあとが乾いて筋になっている。
 ロはかすかに開き、その端からはほんの少し血液が溢れている。
 右手のそばに、ペティナイフが刃の根元まで血に塗られて落ちている。
 顔色は土気色で。
 明らかに、死んでいる。
 窓のない部屋に、血の匂いが充満していた。
 はじめに動いたのは、やはり御手洗だった。つかつかと死体に近づくと真上から見下ろし、観察し始める。自分のジャケットのポケットに手を突っ込んでごそごそ動かし、中からピンク色の何かを取り出すと、ぶらんとつまんで広げた。
「なんだい、それは?」
「君は準備が悪いな。これは台所仕事用のゴム手袋だよ。仲居さんに言って貰ってきたんだ。ほら、遺体に触って僕の指紋が付いたら困るだろう。」
 そう言って、ごわごわしたピンクのゴム手袋をはめると死体が着ている背広の内ポケットを探った。そこは僕も気になっていた。不自然に盛り上がっていたからだ。御手洗はそこから、グレーのプラスチックのペンケースらしいものを取り出した。また、上着の腰のポケットからはキャンディーの包み紙がたくさん出てきた。かなりの甘党らしい。中身の入ったキャンディーはひとつも残っていなかった。それからシャツのボタンを外し、刺し傷の状態をよく見ていた。そこは血みどろで、まだ肉が血液で塗れて、てらてらと蛍光灯の光を反射して輝いており、僕と番頭さんは思わず目を背けた。特に番頭さんはかなりショックを受けたらしく、ふらふらしながら階段を下りていった。御手洗は様々な観察を終えると、ぶかぶかのゴム手袋で器用にボタンをきちんと留め、キャンディーの包み紙も、胸のペンケースも元通りに納めた。それから、立ち上がって部屋の中をきょろきょろ見回した。ベッドのカバーをめくると奥を見て何かに気付き、床にはいつくばり手をうんと伸ばして引っ張り出す。
 皿とフォーク。皿には肉汁が付いた跡。油脂も白く固まっている。キッチンに置きっぱなしになっていたフライパンで調理したものだろう。僕は御手洗の持った皿をただ見つめた。
 そのときまた、番頭さんの叫び声が階下で上がった。僕たちは顔を見合わせ、慌てて階段を下りる。途中でまた足を滑らせ、後ろの御手洗に背中を支えられた。
 番頭さんは玄関の正面にあるベランダのカーテンを握り締めたまま腰を抜かして床にへたり込んでいた。僕たちを見るとベランダの外を指差すが、言葉が出て来ずただ口だけがぱくぱく動いていた。僕はベランダのカーテンを全開にし、ガラス戸に手を掛ける。凍り付いていてぎしぎし鳴ったが、何度か下の方を蹴っ飛ばし、ようやく半分ほど開いた。途端、僕も動けなくなる。
 凍りついた男が転がっている。口と目を大きく開き、何かに驚樗したような表情を文字通り顔に凍り付かせたまま。体のほとんどを大量の雪に覆われ、しかし不思議なことに左足だけは雪が払われ、大腿部のズボンが破れていた。ハサミで切られたようにきれいな破れかただ。楕円を描いている。
 そしてその内側。つまり、大腿部の肉がごっそりと切り取られていた。
 ゴム手袋をつけたままの御手洗が、死体を雪から引っ張り出し、リヴィングに上げた。死体の跡は石膏型のように人の形に縁取られ、ベランダの板張りの床がのぞいた。元人間だったそれはかちんこちんで、人形のような気がした。お化け屋敷にある恐ろしい形相の蝋人形か何かのような。死体はかなり大柄の男性で、毛の付いたフードがくっついた南極観測隊のような厚いジャケットを着込んでいた。まるで熊みたいなイメージを受ける。
「こ、この人。」
 ようやく落ち着いた番頭さんの口が開いた。
「旅館のお客さんでしょう。東京の佐々木さんと一緒に来てたという、柔道家。」
 御手洗が、死体を観察しながら答えた。
「そうです、そうです。でもどうしてそれが?」
「そうでなければ繋がらないからですよ。」
 しゃがんでいた御手洗はよいしょと立ち上がり、死体をごろりと裏返した。後頭部がぐちゃぐちゃだ。凍っているから出血はない。何かで殴られたのか。
 ひとしきり観察が終わると、御手洗はまたひきずってベランダの外に戻しておいた。
 番頭さんがいない。ふと見ると、トイレに行き泣きながら嘔吐していた。僕は背中をさすってやったが、彼が嘔吐する気持ちも分かる。たった一日で立て続けに三つも死体を発見してしまったのだから。
 しばらくすると、凍死体を運んでいった従業員たちもやって来た。御手洗は、捜査の邪魔になるからなるべく荒らさないようにと言い残して、さっさと貸し別荘を出て行く。僕はぺこぺこ頭を下げ、番頭さんが具合を悪くしているので旅館に連れて行きたいことを説明した。従業員たちはそれは大変だと番頭さんを背負い、結局すぐに全員で別荘を出た。

 御手洗が頭のてっぺんからほかほかと湯気を上げ、風呂から上がってきた。浴衣に羽織をはおっている。さすがに雪の中は寒く、旅館に戻った途端温泉につかりに行ったのだ。
「君も入って来たまえよ、あったまるぞ。」
僕はやっとのことでスキーウェアーを脱ぎ捨てると、ちゃぶ台に伏せてうたたねしていた。寒さと死体三つは、番頭さんではないがやっぱり毒なのだ。ぐったり疲れきり、僕は少しだけ休みたかった。
「僕が風呂に行ってる間に駐在さんが来たとか、話してなかったかい?」
「いや。」
 うとうとしている僕に御手洗は容赦なく話しかけた。僕はもう寝るのは無理だと悟り、ちゃぶ台から顔を上げる。御手洗は昼に仲居さんが持ってきてくれた饅頭をほおばっていた。
「駐在さんがどうかしたのか?」
「いや、事件の解説をせねばなるまいなあと思ってね。」
「何だって、君はもう分かったって言うのかい?」
「当たり前じゃないか。君は分からないのかい?」
「うん。」
 御手洗はわざとらしく大きなため息をつくと、
「あそこまで見ておいて何故分からないのか僕のほうが不思議だね。いいかい、二階で腹を刺されて死んでいた死体。見覚えはないか?」
「えっ?あの人?」
「僕と一緒に見たじゃないか。」
 僕は考え込む。細面で、高そうなスーツを着ていた。髪が血でばさばさになっていた。目は閉じていた…。
「ああっ!思い出した!グルメ本の、森岡重信だ。しかし、本の写真に比べて随分痩せていたぞ。」
 僕も饅頭をひとつ手に取ると、フィルムを剥がしてかぶりついた。
にやにやして、御手洗は続ける。
「そう。そのグルメ。そして、ほかの二人は前にこの旅館の客だった男たち。彼らはグルメを営利誘拐して、貸し別荘に閉じ込めた。」
「誘拐だって?!」
「そう。彼らはこの旅館に泊まりながら、貸し別荘を下見し、計画を練った。下の村までは普通なら車で三十分位だし、電話をかけに行くにもいいと思ったのかも知れないな。とにかく、その時に、グルメ本を忘れていった。石岡君、お茶。」
 僕は渋々急須にお茶っ葉を入れ、ポットからお湯を注いで湯飲みに淹れた。ついでに自分の分も淹れる。ずず、と音を立ててお茶をすすった御手洗は一息ついたようで、新しい饅頭のフィルムを剥がしにかかった。
「営利誘拐なら、自宅に身代金の要求が行っているだろう。しかし、雪に閉じ込められている間、電話は掛けていないはずだ。あの別荘の電話で掛けたら場所が特定されてしまう。多分、村まで下りて公衆電話を使う予定だったんじゃないか。いずれにせよ、グルメの自宅は大騒動していることだろう。」
「警察は極秘捜査しているんだろうか。『逆探無理でした』なんて?」
「誘拐の捜査は大抵そうだろうね。ところで君、あれらの死体はいつのものだと思う?」
「いつって?吹雪で閉じ込められてからのものだろ?」
「うん。まず一番は、柔道家だな。そうでなければ、誰かが死体をベランダに出したり出来ない。まあ、別荘に入ってすぐのことだっただろうな。それを佐々木がベランダに出した。二番目に、グルメが自殺した。」
「待ってくれよ、あれが自殺だって言うのかい。佐々木が、グルメを足手まといに思って殺したんじゃないのか?」
「違うね。君も遺体を見たろう。ナイフを持って襲われたら、いくら左手をベッドに縛られていても残った手で庇おうとするだろう。大概、手や前腕部に傷が残っているはずだ。しかし、それがない。それに自分で刺した場合と他人から刺された場合では、腹部の刺し傷の角度が違うんだ。もちろん、検死をしてみない事には詳しいことは言えないが。」
「でも、何故自殺しなければならなかったんだ?」
 僕の問いかけに、御手洗は返事しなかった。
 そしてそのまま、僕の一切の質問を無視してグルメの書いた本を読み返していた。

 ようやく駐在さんが来たと仲居さんが知らせに来たのは、夕方四時少し前だった。すでに番頭さんと貸し別荘に行き遺体を回収、下の村の病院に安置してもらったという。大体のところの話は番頭さんがしているのだろう。外は薄暗くなり始めており、とにかく発見時の話を聞かせて欲しいと僕らは旅館の宴会場に集められた。駐在さんのほかに僕と御手洗、まだ少し顔色の悪い番頭さん、一緒に別荘に行った従業員の二人がその場にいた。
 駐在さんがその場を仕切り、番頭さんに話を振った。しかし番頭さんは死体を思い出すのか歯切れが悪く、自分の見つけた凍死体の事を話し終えると、後は御手洗に聞いて欲しいとよろよろと席を立ってしまった。
「じゃあ、お客さん。あなたが話を聞かせてくれますね?」
 中年の駐在さんは御手洗に聞いた。威厳をかさにかぶった感じもなく、物腰の柔らかい話し方をする。御手洗はよくぞとばかり、にやり笑って話し始めた。
「貸し別荘まで続いた凍死体の足跡は、今日の夜中に付いたものでしょう。雪が弱まったのは今日に日付が変わってからでしたからね、すっかり足跡が判別出来たという事は、その前ではありえない。つまり、彼が別荘を出たのは、今日になってからです。更に、ベランダにあった後頭部に座滅創のある死体。凍っていてはっきりしませんが、死んでベランダに出されてから4日は経っていますね。死体を除けた時、死体の下には雪がほとんどなかった。雪が降り始めてすぐに置かれたということです。彼が後ろ向きに階段から落ちて後頭部を打ち死んだ後、佐々木という凍死した男がベランダに移動したのです。」
「ま、待ってください。何故階段から落ちたなんて言えるんです?仲間割れして後ろから殴られたのかもしれないではないですか。」
「それはあの服装が物語っていますよ。南極探検隊みたいなもこもこした動きづらい服を着ているから、階段で身動きが取れなかったのです。しかも降り始めた雪を踏み、靴の裏に水の付いた状態であのすべる階段を上って御覧なさい。ここにも階段を落ちかけた男がいますから、証人になりますよ。」
「そうなんですか?」
「え、ええまあ。」
 突然話を振られ、僕は焦って頭を掻く。御手洗は続ける。
「この二人組は、以前この旅館に泊まって、二階で死んでいた男を誘拐する相談をしたんです。そのとき、誘拐の被害者が書いた本を旅館に忘れます。今は僕たちの部屋にありますが、この友人が言うところによると、その本はベストセラーになったそうですから、当然印税もがっぽり入ります。長者番付に名前が載ってもおかしくないでしょうね。そこの所から誘拐を企てたのでしょう。もちろん、個人的な恨みかも含まれるかもしれない。グルメ評論家に酷評されて経営していた店の評判が落ちるなんて事もあったでしょうからね。いずれにせよ、グルメから金をせしめようと考えた。貸し別荘に監禁することもその時計画したんです。冬季閉鎖の直前で訪れる者がほとんどいないことを知ったからですよ。おそらく車に閉じ込め別荘に監禁した後、食糧を買出しに行くつもりだったのでしょう。しかし、監禁した直後に犯人の片方が階段から落ちて死んでしまう。外は大雪になり、買出しにも行けない。腹は減る。せっかく誘拐した金づるをただで殺すわけにもいかない。そのうち、その金づるが急に具合を悪くする。冷や汗をかき、ぐったりしている。犯人は、何かを食べさせてやらなくてはと思い始める。」
「あなたは何を言っているんですか?まるで見てきたように…。」
「まあまあ、話しは黙って聞くものですよ。そうですね、理由をお話しましょうか。誘拐された森岡の胸のポケットには携帯用のインシュリン注射セットが入っていました。更に、ポケットにはキャンディーの包み紙。糖尿病患者の持ち物ですよ。しかも、かなり重傷ですね。グルメ評論家なんて、余程気をつけなければ生活習慣病にならなきゃおかしい職業でしょうが、今の彼は太ってもいない。糖尿病は進行するとむしろ痩せてくるんです。インシュリンを使わなければ血糖値をコントロール出来ないほどだったのでしょう。キャンディーは、インシュリンを使用し、血糖が下がり過ぎた時に血糖を上げるために必ず持っているものですよ。さて、自分が誘拐されたと知った森岡氏ですが、何日経っても食事が出てこない。腹が減ってキャンディーもなめ尽くし、どうしようもなくなった彼は賭けに出たのです。インシュリンを注射し、病気に見せかけ、病院かどこかへ連れて行ってくれることを願って。隙を見て、誰かに助けを求めようとね。もちろん彼は、屈強な体つきの犯人がすでに死んでいることは知りません。小柄で気弱な心優しい犯人一人だけしかおらず、少し暴れれば逃げられそうなことなど、全く知る由もないのです。そして、あの屋根裏部屋には窓がなかった。大雪で別荘を出られないことも知らなかった。インシュリン注射は皮下注射ですから、片手を縛られていても簡単に出来ます。まあ、たとえ両手を縛られていたとしても、体をひねって胸のポケットに手が届きさえすれば注射できます。犯人が見回りに来る時間を逆算し、血糖が低下して冷や汗をかき、ぐったりするように注射したんですよ。しかし、それを見た犯人は、病院に連れて行こうとは思わなかった。なぜなら、外は大雪で出られなかったからです。腹が減り、ぼうっとした頭で彼は考えた。森岡も、腹が減って具合を悪くしたのではないか?何かを食べさせれば、治るのではないか?
 まあ、低血糖で具合が悪いのだから、彼の考えもあながち外れてはいない。そして、彼はどうしたのか?君、分かるかい?」
 御手洗は、急に僕を見た。御手洗の話に聞き入っていた僕は驚いて、慌てて無言のままぶんぶん首を振る。
「ううむ、君は短期記憶さえやられてしまっているのか?ベランダで死んでいた男の左大腿部の傷を見たかい。凍ったまま服の上から包丁で肉を削ぎ落としたのさ。凍った肉は硬いから何度か繰り返さないと、たくさんの肉は取れない。しかし、凍っているから出血はない。それを、塩と胡椒で味付けし、フライパンで焼いて、森岡に持って行ったんだ。森岡は病院に連れて行ってくれるのではなかったのかとがっかりしたが、空腹には勝てず、それを口にした。」
「人の肉…をですか?」
「そうです。しかし、森岡氏はそれが何の肉か知らないで口にしたのですからね。・・・彼はグルメ評論家として各地の食材を食べている。しかし、自分の食べたことのない肉がここにある。全て食べ終え、皿を下げに来た犯人に彼は聞いたのです。
 これは一体何の肉かと。
 そして、彼は真相を知ることになる。
 彼は、ショックを受けたのでしょう。犯人が肉を切るために持って来ていたペティナイフを使って自分の腹を刺した。何度も、何度も。そして彼は、出血多量で死んでいく。 一方、突然に自分の腹を刺し出した森岡を見て驚いた犯人は、我を失った。とにかく逃げよう、それだけを考えた。別荘まで来た車まで行けば雪の中でも何とか下の村まで行けるかも知れない。そう考えて、別荘を飛び出した。しかし、外はまだ吹雪。夜ということもあり方向感覚を完全に失った。車を止めたほんの数十メートル先にたどり着けず、彼は空腹と寒さに倒れた。そして、体は徐々に凍り付いていった。朝になり、ポチが彼を発見するまで、彼は雪に埋もれてそこに転がっていたわけです。」
 僕たちは御手洗の話を聞き終えた後も、しばし果然とその場に座ったままだった。
 人の肉。
 食べた。
 御手洗が追い討ちをかけるように、口を開く。
「そうそう、言っておかなければなりません。人の肉というものは、なかなかおいしいもののようですね。グルメの森岡が、空腹であったとはいえ、ひとくちも残さず平らげていましたからね!」
 駐在さんを含めた僕たちは我先に、洗面所に向かって走り出した。

 僕は夕食を食べる気力もなく、布団を敷いて横になっている。仲居さんが心配して氷枕を作ってくれた。寝返りを打つたび茶色い厚いゴムの中で大きな氷の塊が水に浮かんで、がばりがばりと音を立てた。元凶の御手洗は浴衣のままで布団の上にごろりと寝転がり、何食わぬ顔で七時のニュースを見ている。あの後、駐在さんは貸し別荘のすぐ近くの路肩で雪にすっかり埋もれた白いレンタカーを発見した。そして県警に問い合わせると、やはり森岡は誘拐され、一度だけ自宅に犯人から身代金要求の電話がかかっていたことが分かった。その後数日間にわたり犯人からの電話もなく、悪戯だったのかと言う話も出、それにしては森岡本人も自宅に戻らず、混乱を極めていたようだった。一部の報道機関では、勇み足か抜け駆けか、ニュースで失踪事件として流したところもあるようだ。
 犯人二人については、宿帳に書いてあった住所も名前も出鱈目であったが、車に残っていた免許証などから身元が割れた。二人は共同で飲食店を経営していたが、森岡に店をこっぴどくこき下ろされて閉店に追い込まれ、多額の借金を背負っていたようだと駐在さんが教えてくれた。
 僕は時々大きなため息をついては、布団に寝転がってテレビを眺めている横の大それた男の事を考えた。
 なぜ御手洗は何事にも動じないのだろう。食人という行為を目の前にしても。
「人の肉を食べるなんて、考えられない。」
 つい、口に出してぼそりとつぶやいた。
 御手洗がちらりと僕のほうを見る。そして、にやりと口元を歪めた。ゆっくりと体を起こし、立ち上がる。
「君は、カンニヴァリズムについて、何も知らないのかい?人の肉を食べるなんて、古来世界中で行われてきたことなんだぜ。欧米、アジア、もちろん日本でも。 カンニヴァリズムを分類すると、いくつかに分かれることが解る。
 まず、飢餓によるもの。
 次に、風土や宗教上の儀式などによるもの。
 そして、人肉を食べたいという純粋な欲求によるもの。
飢餓によるものは、今回のケースのように緊急避難行為として、周囲からは大目に見られている場合が多い。また儀式の場合も、その土地や宗教の風習にのっとったものだから、外部はともかく仲間からは何とも言われることはない。しかし、欲求によるものはどうか。これは、非難轟々さ。本人は食べたかっただけなのにね。 ずっと昔には、宗教の上でカンニヴァリズムは普通の行為だった。人柱、生贄、そしてストレートに人肉を喰らうなど、様々なケースがある。しかしそもそもの始まりは、DNAだと思うんだよ、石岡君。聖職者が死ぬと、信者はその肉を争うように口にした。それは何故か。自分の体の中に、聖職者の持つ優れた遺伝字を取り込もうとしたのさ。もちろんデオキシリボ核酸は消化管内で吸収・分解され、遺伝子が取り込まれることなんてありっこない。しかし昔の人々は知識がないために、そう信じた。野生の動物は、病死した仲間の死体を何の感慨もなく食むだろう?それは、病死した仲間の死体を自分の体内に取り入れることでその病気への免疫をつけているのだとも言われている。本能的にそれを知っているのだ。誰に教わるでもなくね。
 つまりは、弱肉強食なんだよ。
 弱いものは強いもののために身をささげる。強いものはその遺伝子を持ったものを少しでも増やそうとする。猿山のボス猿のように、一夫多妻制になるとかしてね。そしてボス猿が代わると、前のボス猿の遺伝子を持った小猿は生贄のように殺される。より強い子孫を残すことは、進化の過程に必要なことなのさ。きっと残酷な我々の遺伝子には、どこかでカンニヴァリズムを行うようにプログラミングされているのではないだろうか?多くの宗教がカンニヴァリズムをその中に組み込んでいる。たとえばキリスト教。彼らは異教徒がカンニヴァリズムを行うと断罪し、人肉嗜食を理由に魔女狩りさえ行ってきた。しか初期キリスト教の信仰の中核にあったもの、それが聖職者の人肉を食べることであるということは意外に知られていない。象徴的なものではなく、彼らは実際に聖職者を殺して食べたのだよ。そのことが神に近づくことだと信じて。現代において、実際にカンニヴァリズムを行うのはもちろんタブーだ。しかし同じくらいタブーであるものに、殺人がある。こちらはどうか?文明が発達するに従って食人が少なくなってくるにつれ、殺人も減ったかというとそうではない。むしろ、キリスト教は歴史において多くの戦争を起こしている。文明が高度になり、たくさんの殺戮兵器が開発され、キリスト教徒が半分以上を占めるどこかの大国が何かと大儀名文を掲げてあちこちに戦争をふっかける。
 新兵器の実験のために。
 新兵器を売り込むプロモーションのために。
 自国の強さを他に見せ付けるために。
 そのために犠牲となる生贄はすべて弱者だ。
 日本の現代杜会にも、象徴的なカンニヴァリズムはあちこちにはびこっている。実際に人を食べることはしなくても、クラスにはいじめられっこはいなかったか?その人を生贄に、楽しんだりはしなかったか?中心に生贄を作ることで、共同体に同一性を見出し、連帯感を持ったことはないか?優越感を持って、弱者を差別したことはなかったか?それらはすべて、弱いものは強いもののために身をささげるという構図にならないか?人間は古くから、同じことを繰り返してきたんだ。やはり、どこかにプログラミングされているとしか思えないほどにね。」
 何だか、頭が混乱してきた。
「キリスト教が食人を行っていたなんて、思えないけどな。」
「なに言っているんだい、君。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵を知っているだろう?その席でイエス・キリストはこう言うじゃないか。パンとぶどう酒の杯を取り、『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。この杯はあなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。私は去っていくが、また、あなたがたのところに戻ってくる』ってさ。あれこそが、DNAを体内に取り込み、体内で再生させるという概念のすべてを表している。」
「ああ…。」
「ところでね、駐在さんの居るところでは言わなかったんだが、あの事件にはちょっとした謎が残っている。解かるかい?」
 僕は御手洗の言葉に考えを巡らせてみる。頭を動かすと枕の中の氷がまた音を立てて揺らいだ。無言のままでいる僕に、御手洗は不満そうだ。
「君は昼間、いい疑問を持っていたのに忘れてしまったのかい?『何故森岡は自殺しなければならなかったのか?』.君はそう言っていたじゃないか。」
「だって、それは。君が言ったんだろう、駐在さんのところで。人肉を食べたことにショックを受けて腹を刺したんだろうって。」
「君ねえ、人の言うことにちっとは疑問を持ちたまえ。君はほんとにその理由で納得したのかい?」
「う、うん。」
 御手洗はわざとらしく大きなため息をつくと、布団の上にどんと座った。
「森岡は子供の頃、人肉を食べていたんだよ。
 森岡の父親は、昔中国に居たんだ。さっき、三つ目の理由としてあげた、欲求による食人があったね。ごく近代まで、中国では人肉を普通の食材として市場で売られていたという。飢餓のためではなく、食文化のひとつとして成り立っていたんだ。正に地域性の違いだね。森岡の父が、人肉を食べることに対し大きな低抗を示さなかった理由だ。飢餓状態にある子供たちを生き延びさせるためには、もうこれしかないと思ったのだろう。森岡の著書に書かれている、父親が持ってきた切りたての新鮮な肉というのは、母親の肉だったのだよ。子供たちには言えずに、けものの肉と言ったようだが。それは、日本では人肉を食べることはタブーだったと知っていたからだ。とろけるような触感の、噛むたび肉汁の滴るその肉の味が彼に大きな影響を与えてしまったのさ。まさに取り付いたといっても言い過ぎではない。大人になってからの彼の人生は、必死になってその時の肉を探すための人生に変わっていった。あちこちの食材を食べ歩き、あの時食べた肉の味を探し回った。グルメ評論家となり、おおっぴらに食べることを職業としてね。重度の糖尿病となってもそれは止めることが出来なかった。そして彼は、誘拐された先で、ついにあの時の味にたどり着いた。
 しかしその肉は、人の肉だった。
 彼はやっと気付くのだ、自分を餓死から救ってくれたあの肉が母親のものであったと。
 彼は絶望の淵に落とされる。自分は母親の肉を食べた、罪深い人間だ。妹たちもすでに死亡し、残っているのは自分だけだ。自分も死ぬべきなのだ。これはきっと罰なのだ。あの味を探求する旅は、終りを遂げた。
自らの手によって。」

 僕はその話を駐在さんに伝える気にはならなかった。森岡氏が自殺した理由は、皆の前で御手洗が話したことで充分だと思う。検死すれば森岡氏の胃の内容物からは、人肉が発見されることだろう。それだけでも、遺族には辛い出来事なのではないだろうか。御手洗も別に話せとは言わなかったので、僕たちの胸のうちに収めておくことに決めた。

 翌朝の空は快晴で、吹雪は完全になりを潜めた。やっと馬車道に戻れると、僕たちは朝食の後、旅行かばんに荷物を詰め込む。ちゃぶ台の上には仲居さんのくれた饅頭がまだ山ほど残っていたが、いい加減うんざりしていたし、かばんにも入りきらず置いていくことにした。身支度を整えて玄関脇の事務所に宿代の精算をしにいくと、カウンターから女将さんが顔を出した。
「あらあ、いいんですよ。××ツーリストさんから、お代は貰っていますもの。」
「でも、それは、二泊分だけでしょう?」
「でも、雪で帰れなかったのは事故扱いということで。それに、事件も解決してもらったことだしねえ、お代はもらえませんよ。今度また、来てくださいな。仲居のたけちゃん、お連れさんが気に入ったみたいでね。今日お発ちになるって聞いてがっかりしてるのよ。」
 僕は元気の良いあの仲居さんが落ち込んでいるところを想像して、彼女には悪いが何だかおかしくなった。
「冬は閉鎖してるけど、五月になったら再開しますから、今度は夏にでも来てくださいね。」
「ええ、ぜひ。」
 御手洗が荷物を持って玄関までやってくる。仲居さんのことを思い出しにやにやしていると、御手洗が変な顔をした。従業員の一人が玄関を出て行き、下の道路に送迎のワゴン車を用意してくれるらしい。寒いので玄関の中で待っていると、仲居さんが事務所からのしのし出てきた。御手洗を見て、ぽっと顔を赤らめる。そして温泉饅頭の箱が入った、ロゴ入りのべ一ジュのビニール袋を強引に御手洗に握らせると、こそこそとまた事務所に戻って行った。
 エンジン音がして、車の準備ができたようだ。僕は女将さんや番頭さんにぺこぺこ頭を下げ挨拶すると、玄関を出た。
 外の日差しは眩しくて、まるで目に突き刺さるように鋭くとがっていた。
 僕と御手洗は、旅館の皆に見送られながら、下の道までの下り坂を慎重に歩く。昨日借りたカナダ製のブーツとは靴底がきっと違うのだろう、気を抜くとすぐに滑りそうになる。何とか下の道路にたどり着きワゴン車に近づくと、途端に足元が滑って尻餅をついた。
 御手洗はそんな僕を見て、にやにやしながら手を差し伸べた。

 長い旅行から馬車道に戻った僕たちが真っ先に何をしたかというと、ケーキと紅茶でお茶にしたのだった。温泉饅頭は未だ封も開けられていない。