ハ…クション!
買い物を終え、アパートに向かうため買い物袋を下げて隣を歩いていた御手洗が突然立ち止まったかと思うと、体を大きく前方に折り曲げながら豪快なくしゃみをひとつした。
「あー寒い。今夜はかなり冷えるね」
御手洗は鼻の下を指でこすりながら寒そうに肩をすぼめ、私を振り返った。
「本当だね。今日あたり雪でも降るかも知れないね」
私は厚い雲の広がる灰色に淀んだ空を見上げると、同じように肩をすぼめた。
「雪か…。あまり有り難くないな。寒いのは苦手だよ」
「あはは。でも、今日ばかりはそう思ってない人の方が多いんじゃないかな。だって今日は年に一度のクリスマスイブだからね」
私は隣で顔をしかめている御手洗の様子に思わず笑いながらそう言った。
「クリスマスイブ、ね。あぁそうだね。僕らも早く帰って温かい部屋でケーキでも食べようじゃないか」
御手洗は皮肉を言いたそうな、それでいて少し照れ臭そうな表情を浮かべると言った。
「あ…! そう言えばケーキを買うのを忘れてるじゃないか。…どうしよう?」
私はハッと立ち止まると、とたんにあきれ顔になっていく御手洗を見つめた。
「僕、今から買ってくる。御手洗は先に帰って部屋を暖めておいてよ」
私は手にしていた買い物袋を御手洗に預けると、サッと踵を返した。
「いいよ石岡君。無いなら無いで構わないじゃないか」
しかし私はちらりと御手洗を振り返ると軽く片手を上げて御手洗を制する。
「大丈夫、すぐに戻るから」
私はそう言うと今来た道を駆け足で戻った。
直線距離にしてあと百メートル程で目的のケーキ屋という所まで来た時、私はまたもハッと立ち止まった。
なんて事だろう。今度は御手洗に部屋の鍵を渡すのを忘れていたことに気付いたのだ。今日の私はどうしてしまったのだろう。やけに物忘れが多い。このままでは御手洗はアパートに着いても部屋に入ることができず、私が戻るまで寒い中外で待っていなくてはならないのだ。
ひとまず御手洗のもとまで戻ろうか?
私は見えるはずのないアパートを振り返った。
いや、今は目的を果たすことが先決だ。そうでなければ、何のために私はここまで戻って来たのか分からなくなる。すぐに済ませて戻ればいいのだ。
私は意を決すると目的に向かい、足を進めた。
道を進み、突き当たりの工事現場の前まで来たとき、私は一瞬躊躇して立ち止まった。しかしすぐに気を取り直すと回りに誰もいないのを確認し、工事現場をぐるりと囲う簡易の壁の切れ目を通り、人気の無い真っ暗な工事現場に足を踏み入れた。
ケーキ屋はこの工事現場の反対側に位置している。
「あぁ! 僕としたことがうっかりしていた! 先に帰って来たのはいいが、鍵は石岡君が持っていたんじゃないか。石岡君が戻るまで部屋に入れないんじゃ先に帰った意味がないじゃないか」
御手洗はアパートの部屋の前まで来てようやくその事に気が付き、自分の間抜けさに乾いた笑いを立てた。
「仕方がない。ここで待つとするか」
御手洗は溜め息とともにドサリと買い物袋を下に置くと、ドアを背にしゃがみ込んだ。
「それにしても寒いな…」
御手洗はコートの襟に首を埋めるとフゥ…と息を吐いた。その吐息は途端に白く煙り、広がって消えた。
私は警察の張った黄色いテープの前で興味深げに集まるヤジ馬に紛れながら、先ほど自分が通 過してきた工事現場の内部を覗き見ていた。いつの間にか中ではいくつものライトがつけられ、慌ただしく動き回る刑事の陰がくっきりと浮かび上がっている。その中には事情徴収をうけているらしい女性の姿も見て取れた。怯えながらも懸命に話すその姿からすると、恐らく彼女が警察を呼び、様子を詳しく聞かれているのだろう。
ここで事件が起こったのだ。
私はしばらくその様子を眺めていたが、その場を後にするためゆっくりと振り返ろうとした。その時、今まで刑事と話し込んでいた女性が不意に私に目を向けた。そして見る見るうちに顔色を変えると横に立つ刑事の腕を掴み、訴えるように何か話しかけた。その異様な様子に私は動きを止め、再び内部に見入った。
女性の話を聞いた刑事は急に顔を引き締めると私の方を振り返り、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってきた。そして私のすぐ前まで来ると目を真っ直ぐに見据え、口調こそ丁寧なものの、有無を言わせぬ
様子で話しかけてきた。
「失礼、そこのあなた。ちょっとお話をお聞かせ願えますか?」
「え? は、はい…」
私は突然の出来事に言い様のない不安を感じた。私はおずおずと頷くと、テープを軽く持ち上げてこちらに来るようにと促す刑事にしたがって、テープをくぐると中に進んだ。
刑事と私は、怯えた顔でじっとこちらを見据えている先ほどの女性のすぐ近くまで行くと立ち止まった。
「この人で間違いないですか?」
刑事は私にチラリと視線を向けるといきなり女性にそう聞いた。
「はい…。間違いないです」
すると女性は今にも消え入りそうな声でそう答えた。
「そうですか。君、名前は?」
刑事はすると私に向き直り、手帳を取り出すと聞いた。背の高い刑事に目前に立ちふさがるように立たれるとすごい威圧感だ。
「石岡です。石岡和己といいます」
「石岡和己さん、ね。石岡さんは今から三十分程前にこの現場に居たそうだね。こちらの女性がそれを見たと言っているんだが、本当かね?」
「はい…、本当です」
「こんなところで何をしていたんだね? 見て分かるようにここは工事中の建設現場だ。こんな所に一般 人である君が入り込む必要は無いように思うのだがね」
刑事は獲物を狙う獣の目で私を見据える。
「はい、すみません…。あの、近道をしようと思って…」
「近道?」
「ここを出てすぐの所にケーキ屋があるんです。クリスマスケーキを買うのを忘れたので…」
私がそう言うと、刑事は複雑に顔をしかめた。
「クリスマスケーキねぇ」
刑事は苦笑すると、すっかりオドオドとしてしまっている私をじっと覗き込んだ。その時、すぐ横でこちらを睨むように見ていた女性が甲高い声を上げた。
「嘘です! この人、人を殺してました! 何か紐のような物で首を絞めて!! この人が犯人です!!」
その声に刑事と私はサッと女性を振り返った。
「それは本当ですか!?」
「本当です。背中を向けてたし暗かったのでハッキリと見えた訳ではないですけど…、でも、首の辺りに手を持っていって、凄い力を入れているのは分かりました。本当です!」
女性は汚らわしいものでも見るような目で私を見ると、必死の形相で刑事に訴えた。
「そうなのですか? 石岡さん!?」
刑事は厳しい視線で私を見据えると詰め寄った。
「違います! 僕は殺してなどいません!!」
私は一歩後ずさると、慌てて顔の前で両手を振って否定した。
「おや? ではその手はどうしたんです? 皮が剥けているようじゃないですか。まるでロープを力任せに引き絞って出来た傷のようですね」
刑事の言葉に私はハッと自分の手の平に目を落とした。今まで気が付かなかったが、 確かに私の手の平の皮は痛々しく剥け、赤く滲んでいた。
「違うんです! これは…」
「まぁ詳しいことは署で聞きましょう。いいですね?」
刑事はそう言うと私の返事を聞く前に私の肩を掴み、促した。私はあまりの展開にすっかり動転してしまい、何をどうすればよいのか何も考えられなくなってしまった。
促されるままパトカーの後部座席に乗り込み、両側の席を二人の刑事に挟まれる形で収まった。車内は暖房が効いていて暖かかったが、私は不安から体の震えを止めることが出来なかった。
準備も調い、では出発となった時、私はアパートの前で待っている御手洗を思い出した。
「待って下さい! あの、これを、この鍵を届けさせてはもらえませんか?」
私は慌ててコートのポケットから1つの小さな鍵を取り出すと掲げて見せた。
「何の鍵だね?」
「僕の家の鍵です。同居人が家に入れずにずっと外で待っている筈なんです。せめてこの鍵を届けさせては貰えませんか?」
私はすがる思いで隣に座る刑事に訴えた。御手洗と途中で別れてからどの位の時間が経ったのか正確な所は分からない。しかし短くない時間が過ぎていることは確かだ。この間、御手洗はずっとこの寒空の下、私の帰りを待っているに違いないのだ。ケーキを買って帰るだけの筈がなかなか戻らず、心配しているかも知れない。
「あぁ、よし分かった。若いものに届けさせよう。住所は?」
私はその言葉に少しホッとするとアパートの住所と簡単な道順を言い、鍵を隣の刑事に手渡した。刑事はそれを受け取るといったん車の外に出、近くにいた若い刑事に鍵を託した。
「さぁ、もういいだろう。署に行ってくれ」
再び私の隣に腰を下ろすと、運転席にいた刑事に指示を出した。それを合図に私の乗ったパトカーは静かに滑り出した。
私は警察署まで連れてこられるとまず指紋を採られ、そのまま狭い部屋に一人連れてこられた。部屋の中央には小さな机とパイプ椅子が置かれてあり、そこに座るよう命じられた。私は言われるままに冷たいパイプ椅子に腰を下ろすと、すでに部屋にいた一言も話さない無口な警官一人とともに、事情聴取が行われるのをじっと待った。静かな部屋には規則的に響く時計の音だけがコチコチと響いている。
そうして暫く待っていたが一向に先ほどの刑事は現れず、事情聴取が行われる気配はなかった。時折部屋の前を慌ただしく走る足音が近付いては遠ざかるだけだった。
一体石岡君は何をしているんだ? ケーキひとつ買うのに何時間かけるつもりなんだ。クリスマスイブで予約が殺到していて買えないというのなら、諦めて帰ってくればいい。それともまさか事故にでも巻き込まれたのでは…。そうでなければいいが…。
御手洗は石岡と共に暮らすアパートのドアの前にしゃがみ込んだまま、今にも雪の降り出しそうな重い空を見上げた。
嫌な雲行きだ。何か良くない予感がする。
御手洗は沸き起こる不安に突き動かされ、スックと立ち上がった。
迎えに行こう。これはあまりに遅すぎる。何かあったのかも知れない。
御手洗は買い物袋をドアの前に一塊にして置くと、階段に向かおうとクルリと踵を返した。するとちょうど今階段を上ってきたばかりの見知らぬ
若い男がと目が合った。男はチラリとドアの表札に目を向けると、その前に立つ御手洗に近付いてきた。
「石岡和己さんと同居の方ですか?」
「そうですが、あなたは?」
御手洗はいきなり出た石岡の名に眉をしかめると、前に立つ男を無遠慮にもしげしげと眺めた。
「僕はこう言うものです」
男は言うとコートの内ポケットから黒皮の手帳を取り出し、御手洗に掲示して見せた。
「ほぅ、警察の方ですか。で、警察の方が何の用です?」
「石岡和己さんにこれを預かって来ましてね」
男はそう言うと、今度はコートの横のポケットから小さな鍵をひとつ取りだして見せた。
「鍵ですね」
「そう、あなた方の部屋の鍵です。同居人が部屋に入れずに困っている筈だから自分の代わりに届けてくれと頼まれましてね。こうしてやって来たと言う訳です」
「自分の代わりに? 石岡君は今どうしているんです? まさか事故にでも巻き込まれてしまったんじゃないだろうね」
御手洗は先ほど感じた嫌な予感が的中した思いで前に立つ刑事に詰め寄った。
「いや、事故ではありませんが、先ほど起こった事件の参考人としてお話を伺っているところです」
「事件だって!? それはどんな事件なんだい!?」
「殺人事件です。詳しいことはまだ分かっていないのでこれ以上はお話できません。でもまぁ、そう言った訳で石岡さんはもう暫くこちらには戻れないと思いますね。では僕は職務中ですのでこれで」
そう言うと刑事は強引に御手洗に鍵を渡し、さっさと背中を向けて去って行く。御手洗はその後ろ姿を睨み付けるようにして見送ると慌ただしく部屋の鍵を開け、中に荷物を投げ入れた。そして荒々しくドアを閉め、鍵をかけると階段に向かって走り出した。
どうやら石岡君は殺人事件に巻き込まれてしまったらしい。無事ではあるようだが、困った状況に陥っていることは間違いなさそうだ。何にしても今はまず情報を集めることが先決だ。
御手洗は通りに飛び出すと、すれ違う通行人に片っ端から声をかけて回った。
「今し方、この近くで事件があったようですね」
しかしほとんどの人は知らないな、と軽く手を横に振るか、返事さえ返してこなかった。それでも御手洗は諦めずに次々に声をかけて回る。
「この近くで事件が起こったそうですが、何か知っていますか?」
十五人を超えたあたりだろうか、ついにこの質問に あぁ、と反応を示す者が現れた。
「あぁ、知ってるよ。さっきそこの工事現場で起こった殺人事件の事だろう? どうやら犯人が男を絞め殺している所を丁度誰かに目撃されたらしいよ」
「絞め殺しているところを目撃された? それでその犯人は?」
「さぁ、逃げたみたいだからまだ掴まってないんじゃないかな? あぁ、でもさっき男が一人パトカーに乗せられてたっけ。あいつがそうだったのかな。気になるなら行ってみるといいよ。今も凄い人だぜ」
男はそう言うとその事件があったという工事現場の方を指で示した。
「ありがとう!」
御手洗はサッと片手を上げると、男の示す方向にある、この近くで唯一工事を行っている現場に向かった。
それは、最近よく利用している洋菓子店から道を挟んで反対側に位置する場所にあった。先ほどの男の言った通 り、そこは大勢の人でごった返していた。御手洗はその人込みを掻き分けて前に進むと中を覗き込んだ。中ではまだ何人もの刑事達が慌ただしく動き回っているのが見える。
御手洗は回りに集まっているヤジ馬達をグルリと見回すと、その中の一人に目をつけた。見るからに話好きそうな中年の婦人
だ。
「失礼。ここで何かあったんですか?」
御手洗はただのやじ馬を装って興味深そうに中年婦人に話しかけた。すると中年婦人は待ってましたとばかりに御手洗を振り返り、内緒話でもするかのように小さく手招きしてみせた。
「そうなのよ。何でもね、ついさっきここで人殺しがあったんですって! 怖いわねぇ」
その言葉に御手洗は初めて聞いたとでも言うように大袈裟に驚いて見せた。
「人殺しだって? 誰がどうやって殺されたんです?」
「誰かはまだ分からないわよ。でもどうやらロープで絞め殺されたらしいわよ」
「ほぅ、ロープで…」
「そう、ロープで。どうもその犯人、丁度首を絞めてる時に誰かに見つかっちゃったらしくて、回りも見ないで慌てて逃げていったらしいわよ。だから目撃者も多数いるみたいで、すぐに捕まるんじゃないかしらね。そうそう、首を絞めるのに使ったロープだけどね、殺された男の人の首には巻き付いていなくて、近くにあった材木か何かの方にしっかりと結び付けられてたらしいわよ。なんでなのかしら。殺した後にいちいち結び変えたのかしらねぇ。
あら? でもそれじゃ変よね? 犯人は殺してる所を目撃されて慌てて逃げたって話だし、結び変えてる時間なんてあったのかしらねぇ?」
中年女性は自分で話した内容に矛盾を感じたらしく、不思議そうに首を傾げた。
「ふむ…。他には何か変わったことはあったんですか?」
「他に変わったこと? うーん…。あぁそうそう、人殺しがあった少し前に、何度か男の怒鳴る声を聞いた人もいるみたいね。話し合いが揉めて殺しちゃったのかしら。何にしても最近は怖いわねぇ。私も気を付けなくちゃ」
中年女性はそう言うと両腕で自分の体を抱き、大袈裟に震えて見せた。
「なるほど、まだ分からないことはあるがお陰でだいぶ話が見えてきましたよ。ありがとう」
御手洗はにこやかにそう言うと、まだ話し足りない様子の夫人に背中を向け、人込みを後にした。
男の怒鳴り声と目撃された絞殺の現場。材木に結ばれていたロープ。そして逃げた男と警察に連れて行かれた石岡君。おそらくこういうことだろう。
御手洗はギュッと唇を結ぶと、身を切る程に冷たい風に立ち向かうように、石岡の連れていかれた警察に一直線に向かった。
「やぁどうも! お忙しいところすみません。僕は御手洗というものですが、先ほどそこの工事現場で起こった事件の担当者はどなたです? もうこちらに戻られてますかな?」
御手洗は警察署に入ると、前を慌ただしく通り過ぎようとする一人の刑事の前に突然立ちはだかり、言った。刑事は突然目の前に背の高い男が現れた事に驚き、小さくうわっと声を上げると立ち止まって御手洗を不審そうに眺めた。
「…担当は私ですが、何か?」
「おぉあなたでしたか、ちょうど良かった。いえね、今回のこの事件について、少しばかり情報を提供しに来たんですよ」
御手洗は思いがけずすぐに担当者が見つかったことに嬉しそうにひとつ頷くと明るい調子でそう言った。
「情報ですって? それはどんな事ですかな?」
しかし刑事の顔は御手洗とは正反対に不愉快そうに歪められている。
「それはここで立ち話するには少々長いですから、どこか静かな場所で腰を落ち着けて話しませんか」
御手洗がそう言うと刑事は更にうさん臭そうに眉をしかめたが、ではこちらへ、と言って御手洗を促した。
通された場所はフロアの一角を薄い壁で囲っただけの簡単な応接室だった。静かな場所、とは言えないが、回りを完全に壁で囲まれているので、それなりに安心感のある空間だった。
御手洗が刑事に勧められるままに硬いソファに腰を下ろすと、刑事も向かいのソファにドサリと座った。
「それで、今回の事件についての情報と言うのはどんなことですかな? ご存知の通 り、私どもは今この事件について調査中でしてね、大変に忙しいのです。ご協力は感謝しますが、手短にお願いできますか。あぁ、申し遅れました。私は橋爪といいます」
刑事は言うと、鋭い視線で見据えてきた。
「僕の話をする前に、まずそちらの情報を教えてもらえませんか。いくつか確認したいこともあるのでね」
御手洗は威圧的な様子の橋爪に臆することなく真っ正面から見返すと言った。
「それは出来ませんね。捜査の内容は一般人にはもらせないことになっています」
「では、このまま回り道をし、時間を無駄にしてもいいというのですね?」
「どういう意味ですかな?」
すると橋爪は途端に眉間にシワを寄せ、目を細めて御手洗を見た。
「いえ、大したことではありませんが、ちょっとした回り道をしていると言うことです。有能な日本の警察の事ですからこのまま僕なんかが口出ししなくともいずれは正しい方向に向かうとは思いますが、今のままでは無実な僕の友人がしばらく疑われることになる訳です。僕としてもそれは嬉しいことではない。そんな訳で僕は友人が早く解放されるよう、あなた方のお手伝いをしに来たのです」
「あなたのご友人といいますと?」
「石岡和己です。彼には今殺人の容疑がかけられているのでしょう?」
御手洗がそう言うと、橋爪は感情を読み取られまいとするかのように表情を固まらせた。「あなたは石岡のご友人でしたか」
「えぇ。しかしご心配には及びません。僕は彼の共犯者でもなければ、彼の罪を誤魔化すために来たのでもありせん。もっとも、彼は犯人ではありませんがね」
御手洗が言うと、橋爪は御手洗をじっとうかがうように見つめた。
「御手洗さんでしたか。あなたは何故、石岡が犯人ではないとそうまでハッキリと言い切ることが出来るのです? 友人だからですか? 失礼だが、信じている友人や家族が罪を犯すことは現実としてあるのです。実際今回の場合も犯行の現場を目撃した者がいるのです。それでもあなたは石岡はこの事件に関係がないというのですか」
「目撃者と言っても何を目撃したのです? 彼が実際にその手で紐を被害者の首に巻き付け、力任せに引いている所をまじまじと眺めたとでもいうのですか? 現場は今日の工事はとっくに終わり、真っ暗だったはずです。真っ暗な中、多少の距離を隔ててほんの僅かの時間見たという程度に過ぎないのではないのですか?」
「えぇ、確かにそうです。しかし…」
「目撃者の証言は嘘ではないでしょう。ただ、勘違いであった可能性は充分にあります」
御手洗は自信に満ちた声でそう言うと、戸惑う相手を思いやるかのようにフッと柔らかかな笑顔を浮かべた。
橋爪は暫く腕を組んで考え込んでいたが、心を決めたようにひとつ頷いた。
「興味深いことを言いますな。分かりました、いいでしょう。こちらの情報を可能な範囲でお教えしましょう。ところで、あなたが得ている情報を提供するというのは本当でしょうな」
橋爪の問いに、御手洗はにこやかにひとつ大きく頷く。
「お約束します」
橋爪もその返答に大きく頷いた。
「では、何がお聞きになりたいですかな?」
「まず、被害者が殺害されていた現場の様子を教えて下さい」
御手洗がそう言うと、橋爪はスーツの胸ポケットから手帳を取り出し、ページを繰った。
「現場の様子ですな。えぇと、被害者は建設途中の工事現場のほぼ中央で、直径約15ミリメートルのロープで首を絞められ、殺害されていました。我々が到着した時にはすでに息絶えておりましたが、体にはまだ温もりが残っており、死後間もなくといった状態でしたね。えー、被害者は横向きに体をくの字に折って倒れていた訳ですが、発見された時にはロープは被害者の首には巻き付いてはおりませんでしたね。しかし、殺害に使用したと思われるロープは被害者のすぐ近くに落ちており、このロープの端は近くの大きな材木にしっかりと結びつけられていました。
被害者の首に残った絞められた跡ですが、これは近くに落ちていたロープで締めつけられたものであり、首の後ろ側にはそこでいったん紐を縛ったような結び目の跡がついていましたな。それと、被害者の左手の中指と薬指の爪には他人の皮膚と血液が少量
付着しており、これはその後の検査で石岡和己のものであると断定しました」
橋爪はそこまで言うと、チラリと御手洗に目を向けた。しかし御手洗は顔色ひとつ変えることなく、黙って二つ三つ頷くと、口を開いた。
「なるほど良く分かりました。ところで、間違いなく工事はこの時間にはもう終了しており、工事関係者は誰もいなかったのですね?」
「そうです」
「明かりも点いておらず、あたりは真っ暗闇だった」
「そうですね」
「ふむ。殺害に使用されたロープですが、これは工事現場内に前からあったものですか?」
「あぁ、いや、これは違うようです。工事関係者に聞いたところ、このような太さのロープは使用しておらず、現場には無かったはずだと言っていますな」
「なるほど。では次に、今回の事件と関係があると思われる事柄は他にどのようなものがありますか?」
御手洗はここまでの話に満足そうに頷くと、先を促した。
「まずひとつ目に、石岡和己の両手の平に、ロープで擦り切れたような傷があります。また、左手の甲には引っ掛かれたような新しい傷もあり、この傷と被害者の爪に残った皮膚や血液との関係も合わせて、まぁ、石岡がこの事件に深く係わっていると考えています。次に、被害者は殺される直前に男から呼び出しの電話を受けていたという証言を既に得ているのですが、この時一緒にいた被害者の友人によると、被害者は『ある男に呼び出されたからちょっと行ってくる。近くからかけているらしい』というような事を言い残して出かけたようです。そして我々が現場近くの公衆電話をくまなく調べた結果
、現場から50メートルほど離れた場所にある公衆電話の受話器から、真新しい石岡和己の指紋が出ています。ただ、どうしたわけか番号のボタンの方からは指紋は検出されませんでしたな。しかし、それ以外の付近の公衆電話からは、新しい指紋は今のところ検出されていませんね」
橋爪は手帳から顔を上げると、ここまで良いですかな?と聞いてきた。御手洗はその問いに満足そうな顔のまま、どうぞ。と短く答えた。
橋爪は再び手帳に視線を戻すと、そこに書かれている文字を追った。
「えー先ほども少しお話しましたが、被害者の死亡推定時刻に、石岡和己が被害者のすぐ脇にしゃがみ込み、ロープを手にして首のあたりで懸命に力を込めている後ろ姿を一人の女性に目撃されております。また、石岡のものかは分かりませんが、石岡が姿を目撃される少し前には、現場から男の激しく怒鳴る声を聞いた者がいます。何を怒鳴っていたのかは分からなかったそうですが、まるで怒っているかのような激しさだったと言うことですな。
あの工事現場は広い通りに両側を挟まれてますのでね、時折途切れることはあったでしょうが、あの時刻、外の通 りにはそれなりの人通りがあった訳です。まだ細かく調べた訳ではないですが、ざっと聞き込みをしたところではあの時刻、石岡と、殺人現場を目撃した女性以外には誰も現場に出入りしていないようですな」
橋爪はそう言うとパタリと手帳を閉じ、御手洗に目を向けた。
「なるほど、つまり被害者の死亡推定時刻に、被害者の近くでしゃがみ込んでいる石岡君が目撃されており、その石岡君の左手の甲には被害者に引っ掛かれた傷、そして手の平にはロープでできたとみられる擦り傷がある。更には被害者を呼び出したと想定される付近の公衆電話のひとつからは、石岡君の真新しい指紋が検出されている。と、そういう事ですね。ついでに言えば、現場から慌てて飛び出す石岡君らしき人物が目撃されている、といったところでしょうか」
御手洗は言うと困ったようにひとつ溜め息をつき、興味深げに自分を見つめている橋爪に目を向けた。
「確かにこれだけ揃っていれば誰でも石岡君を疑うでしょうね」
御手洗が言うと、橋爪は大きく目を見開いた。
「これでもまだあなたは違うと言うのですか!?」
橋爪は叫ぶように言うと、僅かに体を乗り出した。
「勿論違います。だからこうしてここに来ているのです。今回の事件は、全て勘違いで出来ているのです」
御手洗は真っ直ぐに橋爪を見つめ返すと、ハッキリとそう言い切った。
「勘違い? 何故そう思うのです?」
橋爪はきつく眉をしかめると御手洗を凝視する。
「なぜなら、石岡君はこの事件の第一発見者に過ぎないからです」
「第一発見者に過ぎないだって!?何を言っているんだ。石岡の手には被害者による引っ掻き傷や、凶器のロープでできた擦り傷があるんですよ。第一発見者にそんな傷ができる訳がないでしょう!」
「そんな傷がついた理由はただひとつ、彼がまだ息のある被害者の首からロープを解こうとしたからですよ。手袋もはめていない素手で、簡単には解けないようにときつく結ばれている紐を、必死になって解こうとしたからすりむいたんです。引っ掻き傷も、被害者の最後のもがきによって付けられたものでしょうね」
橋爪の興奮に対し、御手洗はいたって冷静にそう言った。
「何だって? どういう事です? 被害者はまだ生きていたというんですか?」
「そう、生きていたのです。しかし、それはもう虫の息だったでしょうけどね」
「では犯人は被害者を殺さなかったと言うことですか?」
「一瞬では殺さなかったということです。犯人は自分のアリバイを作るため、あえてゆっくりと死ぬ よう仕掛けたのです。とてもその時間には現場に向かうことができない、遠く安全な場所まで行けたころ、被害者の息が止まるようにとね」
御手洗のその言葉に橋爪は天井を振り仰ぐと、ドサリと背もたれに体を預けた。
「まさか…! しかし、あなたは何故そう思うのですか。何か根拠でもあるのですか」
「勿論あります。被害者の首の後ろ側に付いていたという、結び目の跡です。そして殺害に使用されたロープが被害者の近くの材木にしっかりと結びつけられていたこと。これは、本来は被害者の首と近くの材木とは、一本のロープで繋がれていたという事を意味します。なぜそんな事をする必要があったのか。それは、犯人がその場にいなくても被害者の首をずっと絞め続けるためなのです。首の後ろで固く結んだのは、被害者に解かれてしまわないようにするためと、後で首つり自殺に見せかける為でしょう。首を強く絞められ、意識が朦朧とする者にはとても首の後ろの結び目を解くことはできないでしょうからね。近くの材木に結びつけたのは、それでもまだ意識の残る被害者が工事現場から逃げ出し、助けを求めることを阻止するためでしょう。犯人はどうしてもその場で、その時よりもずっと後の時間に被害者に死んで欲しかったのですよ」
「時間をかけて殺すために、首の後ろで結んでいたというのですか…!」
「そうです。すぐには死なない、しかし徐々に衰弱し、息絶える強さでもってです。そして明らかに死んだと思われるその日の夜中に再び現場に訪れ、材木に結びつけておいたロープを今度は近くの工事中の鉄の横棒にでも結び変えようと思っていたのでしょう。足元に台になるものでも置いておけば、まるで被害者は首つり自殺をしたように見える。首にかける輪が小さく、頭を通
すことが出来ないサイズだったとしても、自殺する者が首が外れてしまわないよう自分で予め首にロープを結びつけてから台に上り、その後で鉄の棒に反対の端を結びつけたっていい。首つり自殺にも係わらず、死亡するまでに時間のかかった死体だと仮に分かったとしても、中にはロープの位
置が悪く、なかなか死ぬことが出来なかった首つりの例もあることですからね、そんなに問題にはならないと踏んだのでしょう。うまく自殺として扱われればよし、もしも他殺としても自分にはアリバイがある。そう考えたのでしょうね」
御手洗は被害者の苦痛を思ったのか、辛そうに眉を寄せると言った。
「しかし、時間をかけて殺すなら別段絞殺でなくとも、例えば刃物で刺して失血死させても良いのじゃないですか?」
「それでは駄目なのです。何故なら即死でない刺し傷なら、被害者は間違いなく這ってでも現場から抜け出し、助けを求めるでしょう。そうならないように手足をロープなどでしばったとしたら、今度は手足を縛っていた跡が残ってしまう。これでは間違いなく他殺を疑われるでしょう。そうなれば被害者との人間関係が調べられ、恨みを持っている自分の名もいずれ上がってしまう。それに第一、返り血を浴びてしまう危険性がある。犯人は被害者を襲った後、すぐにでもその場を離れて何処か人の目のある場所でアリバイを作らなければならないのです。返り血など浴びていてはとても人込みには行けないですからね」
橋爪は御手洗の言葉に唸り声を上げると、大きくひとつつ頷いた。
「うーむ…。では犯人は殺害時刻、いや、被害者の死亡時刻には現場にいなかった者ということですか」
「そうなります」
「石岡は虫の息の被害者を助けようとしただけだと…」
「そうです。石岡君はたまたま通りかかり、そこで首をロープで縛られた被害者を発見し、慌てて駆け寄って助けようとしていただけなのです。大声で叫んでいたのは恐らく、大丈夫か! とか、しっかりするんだ! といったことを叫んでいたのでしょう。目撃された、被害者の首の所でロープを手に力を込めていたのは、まさにそのロープを解こうと悪戦苦闘していた姿です。その時にロープで手の平をすりむいたのでしょうね。左手の甲の引っ掻き傷も、そうして助けようとしている時に被害者の最後のもがきによって付けられたのでしょう。首の後ろに結び目の後のある絞殺にも係わらず、発見された時に被害者の首からロープが外れ、材木だけが結ばれていたのはそういう訳なのです」
「なるほど、そう言われてみれば納得できます。しかし、では現場付近の公衆電話から検出された石岡の指紋はどういう訳なのですか」「それは、一刻も早く救急車を呼ぼうと受話器を手にした時のものでしょうね。ロープを解いた石岡君は、早く助けなければと現場から大慌てで飛び出した。その姿を何人かに目撃され、不審な人物として記憶されてしまった。電話の番号のボタンには指紋が無かったのは、押す必要がなかったのでしょう。恐らく石岡君がかけようとしたその時、救急車が現場に駆けつける音を聞いたのでしょうね」
御手洗は言うと、気難しそうに腕を組み、無言で俯く橋爪をじっと見つめた。
「第一、自分のアリバイを用意しようとする用意周到な犯人が、いざ殺そうという段になって現場で大声で怒鳴ったりしますか? すぐ近くは大きな通
りに面しているのですよ。そんな事をすれば、騒ぎを聞きつけたヤジ馬どもが駆けつけてくるでしょうね。そうなったらこの計画は台無しになってしまうどころか、現行犯で捕まってしまいますよ。電話の指紋や手の傷だってそうです。被害者を呼び出すために使用する電話に指紋を残しますか? 首を絞めれば被害者は当然苦しさにもがいて犯人を引っ掻くこともあるでしょう。それくらいのことは簡単に予想付きます。そう分かっていながらわざわざ手袋もせず、ロープで手をすりむきながら人を殺しますか? 引っ掛かれれば被害者の爪に皮膚の一部や血液が残るかも知れない。ロープで手が擦り切れても同じです。ロープに自分の体の一部の組織を残してしまうことになるかもしれない。そんな自分が犯人であるという証拠をわざわざ残すような事をしますか? 当然手袋などをはめてそれらを防ぐでしょうね。これが衝動的な殺人であり、偶然近くにロープが落ちていてそれを利用したというのならこれもあり得るでしょう。しかし、ロープは工事現場にはもともと置かれていた物ではなかったのでしたね? それなら当然犯人が予め用意したと考えるのが普通
でしょう。間違いなく今回の事件は計画的な犯罪ですよ」
御手洗がそう言うと橋爪はようやくスッキリとした顔で御手洗を見つめた。
「なるほど、良く分かりました。しかしでは真犯人は誰なんです? あなたにはもう犯人もお分かりなんじゃないですか?」
しかし御手洗はゆっくりと首を横に振った。「残念ながらそこまではまだ分かりません。しかし被害者に恨みを持つ者の中で、アリバイのしっかりしている者が怪しいでしょうね」
「そうですか…」
橋爪は僅かに肩を落としたが、事件解決の糸口を掴んだことで、その目には力がこもっていた。
「では、石岡君の容疑は晴れましたね?」
御手洗が言うと、橋爪はゆっくりと大きく頷いた。
「そうですな。いやぁ、大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。しかし御手洗さんにはこうしてお話をうかがえて本当に助かりましたよ。ありがとうございます。 容疑も晴れましたし、本当ならすぐにでも石岡さんをお帰ししたいところなんですが、石岡さんは第一発見者ですのでね、すみませんがもう少し残って頂いて、この後詳しくお話を伺うことになりますね」
橋爪は申し訳なさそうに頭を掻くとそう言った。その言葉に御手洗は安心したように頷いた。
一歩踏み込んだ壁の中はもう作業時間を過ぎて異様な程に暗く、静かで、まるで異世界に紛れ込んだような錯覚を感じた。
私は小さな穴や何かの出っ張りに何度も足を取られながらも、反対側に出るために急いで足を進めた。ちょうど工事現場の中ほどまで来た頃、私は不意に耳に届いた不思議な物音に足を止めた。何かが軋むような、それでいて低く唸るような何とも言えない不気味な音だ。
何の音だろう?
私は音のする方に目を向け、暗闇に目を凝らした。すると、五メートル程離れた場所に、何か大きな物が転がっているらしいことに気が付いた。
まさか、野良犬でも潜んでいるのか…?
私は急に恐ろしくなり、そっと、しかし少しでも早くその場を去ろうと足を早めた。その時、今までよりもひときわ大きく、ハッキリとした唸り声をその黒い影は上げた。
それは、獣のそれではなく明らかに人のものと思われる唸り声だった。
私は足を止めるともう一度暗闇に目を凝らし、その影をじっと見つめた。すると今度は闇に目が慣れてきていたのか、先程よりもハッキリとその姿を見て取ることができた。
それは、紛れもなく一人の人間の横たわる姿だった。
「どうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
私は思わず叫び声を上げると、その横たわる人影に向かって駆け寄った。そしてその人物を抱き起こそうとして思わず息を飲み込んだ。
その人物、小柄な男性の首にはなんとロープがグルリと巻き付き、食い込んでいたのだ。
「何があったんですか!? しっかりして下さい!! 今、解きますから…!!」
私は慌ててロープの端を探すと解こうとした。しかしロープはただ巻き付いているだけではなく、首の後ろ側で固く縛られていてなかなか解くことができない。それにどうやらロープの反対側の端が近くの材木にしっかりと結びつけられているらしく、暗さで手元が良く見えないことも加わって益々思うように解くことが出来なかった。
何か切るものでもあれば…。
私は暗い工事現場内をグルリと見回してみた。しかしロープを切れそうな物は何も見当たらない。
「うぅ…ぐ…」
ひざまずく私のすぐ足元から、また苦しげなうめき声が上がった。
切るものなど探している暇は無い。一刻も早くこのロープを緩めなければこの男は死んでしまうだろう。
私は固くしまっている首の結び目に指をかけた。ロープは人の肌に巻かれていにも係わらず、まるで凍りついてしまってでもいるかのように冷たく、固く固く締まっている。
「頑張って下さい!! しっかりするんだ!!」 私は唇を噛み締めると、渾身の力を振り絞ってロープの結び目に力を込める。その時、今までグッタリと横たわり唸っていた男が不意に腕を動かし、私の左手の甲を強く引っ掻いた。
「痛いっ!!」
おそらくもう意識は無いのだろうが、苦しみにもがいたのだろう。ビリッと電気が走るような激痛が手の甲から全身に走り抜けていった。
私は痛みに一瞬きつく目を閉じたがすぐに歯を食いしばると作業を続けた。こうしている間にも次第に男の体から生気が失われていくのが感じられる。
「待つんだ!! まだ逝っちゃ駄目だ!! 頼むから頑張ってくれよ!!」
私は男の魂を呼び戻すように大声で怒鳴りながら指先に力を込めた。すると私の願いが天に届いたのか、ようやく結び目に僅かなゆとりが生じた。私はそのゆとりを広げるため、さらに力を込める。
そして、ついに絶望的なほどに強く締めつけられていたロープがふっとその力を抜いた。
解けた!
私は男の首に絡まっているロープを素早く取り除くと、男の両肩を掴んで顔を覗き込んだ。
まだ息はあるだろうか?
私は呼吸の有無を確かめるため、自分の手を男の鼻先にそっと当てた。と、その瞬間、背後から激しい女の悲鳴が上がった。
「キャーーーーーーーーーー!!」
私がその声にハッとして振り向くと、女は両手を口に当て、恐怖に引きつった顔で私を凝視していた。
「ひ…人殺し…!!」
女は小さくそう呟くとサッと踵を返し、転げるようにして逃げて行く。
「待って! 君! 救急車を呼んでくれないか! まだ息はあるんだ。今ならまだ間に合うかも知れない!」
私は走り去る女の後ろ姿に大声で叫んだ。しかし女は聞こえなかったのか、振り向きもせずそのまま走り去ってしまった。
私は舌打ちをもらすと足元の男に向き直り、苦しみに顔を歪めたままの男の頬を二度強く叩いた。
「しっかりするんだ! 今救急車を呼んでくる! すぐに戻るからそれまで頑張っているんだ! いいね!?」
私はそう言い残すとサッと立ち上がり、女の走り去った後を追うように駆け出した。
確かあそこにあった筈だ。
私は通りに出ると記憶を頼りに公衆電話を探して走り続けた。しかし、記憶していたそこには既に公衆電話は無かった。私はギリリと歯を食いしばると、次に思い当たる場所に向け走り出した。日頃走ることのない私は早くも息が上がり、冷たい空気に肺が痛む。しかしのんびりしている暇などないのだ。一刻も早く救急車を呼ばなくては、あの男は確実に死んでしまうだろう。
私は胸の辺りの服をきつく掴んで痛みに耐えながら走り続けた。そして、ひっそりとした公園の脇にようやく求めるものを見付けることができた。
私は倒れ込むように電話ボックスに飛び込むと、ボックスにグッタリと体を預けて荒い息を何度も繰り返した。
何とか話ができる程に息が落ち着いてきた頃、私は財布からテレホンカードを抜き出すと受話器に手を伸ばし、それを持ち上げた。そして震える手で119と番号を押そうとした時、遠くから救急車とパトカーのサイレンの音が慌ただしく重なり、近付いてくるのが聞こえた。
あれは…?
私はサイレンの音の進む方向に意識を集中し、じっと聞き耳を立てた。それらはどうやら先ほど私がいた工事現場に向かって走っているようだった。そして、予想通
りそのけたたましい音は工事現場付近でふっと止んだ。
さっきの女性が呼んでくれたのだろうか。これであの男はすぐにでも病院に運ばれて行くだろう。
私はホッとすると受話器を戻し、ゆっくりと電話ボックスから出た。足はガクガクと震え、その場に座り込みたい誘惑に駆られる。しかし無事男が運ばれて行ったことを確認せずにはいられない。
私は震える足を励ましながら、もう一度工事現場に向かって歩き出した。
私が事情徴収を受け、全て話し終えて解放された時にはもう十二時を回っていた。
夜の街からは昼間の喧騒はすっかり消え、冷えて冴え渡る空気に二人の足音が静かに響く。御手洗と私はアパートまでの道のりを並んでゆっくりと歩きながら、その足音を聞いていた。
不意に御手洗が私を振り返ったかと思うと左手に手を伸ばし、ぐいと持ち上げた。
「あーぁ、こんなに切れてるじゃないか。傷は痛むかい?」
御手洗はまるで自分が怪我をして痛むかのように顔を歪めると私を見た。
「大丈夫だよ。ずっと忘れていたくらいだし、心配はいらないよ」
私はそっと御手洗の手から左手を離すと右手の平で傷を覆うようにして隠した。思いの他深い傷を見せてこれ以上心配させたくは無い。
「考え無しだって呆れたかい?」
「あぁ、心底ね。なんて君はお人好しで優しいんだろうってね」
御手洗は困ったように肩をすくめると溜め息をついた。
「まったく君らしいよ。でももうこんな無茶なことはしないでくれよ」
御手洗は言うと優しい眼差しで私を見た。その瞳には深い安堵の色が浮かんでいる。その様子から私は御手洗が心底心配してくれていた事を知った。
「ごめん…」
「…ん?」
御手洗は私の言葉に不思議そうに首を傾げる。
「君がいてくれて本当に良かった」
私がじっと御手洗を見つめてそう言うと、御手洗はふっと微笑みを浮かべ、視線を空に向けた。
「おや、ついに雪が降り出したようだね」
「え?」
「ほら、雪だよ」
「あ、本当だ。積もるかな」
私も空を見上げた。私の視界の遥か先、空の一点から雪はクルクルと舞いながら落ちてくる。
「サンタクロースでも 現れそうな夜だね」
御手洗は楽しそうに言うと私に向かって体ごと振り返った。
「Merry Christmas! 僕も君がいてくれて良かったよ。これからも仲良くやっていこうじゃないか!」
御手洗は言うと右手を差し出した。その手を私は握り返す。
そんな二人を包み込むように、真っ白な雪が絶え間なく二人の上に降り注いだ。